能動的忘却と審査記録の選択基準を示す図。審査記録の蓄積を入口とし、三段階で整理する。第一段は能動的抑制で、前頭前皮質が不要な記憶へのアクセスを抑制し検索を助ける仕組みを示す。第二段は役割の転換で、AIが全記録を保持する環境で人間の仕事が記憶から選択に変わることを示す。第三段は制度化で、規制の有効性・再発の可能性・再発防止の三基準で残すものを選ぶ。出口は基準に沿った選択による判断の速度と精度の維持。結論として、忘却は前頭前皮質の適応機能であり、選択の質が審査の質を決める。
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AIが過去の審査記録を無限に保持できるようになった今、年度末に記録を整理するとき、3年前の判断根拠を残すか廃棄するか迷う場面がある。忘れることは、失うことなのか、身軽になることなのか。忘却は失うことでも身軽になることでもなく、何を覚えておくかを選ぶ行為であり、その選択の質が判断の質を左右する。

01記録を捨てるとき、「もう使わない」と「まだ要る」の境目が分からない

資材審査の担当者は、定期的に過去の審査記録を整理する。販売情報提供活動に関するガイドラインは手順書と業務記録の作成・管理を求めており、記録は蓄積される。3年前に承認した資材の判断根拠が、今の規制環境ではもう通用しないかもしれない。しかし廃棄した翌月に類似の案件が来て、あのときの根拠が必要になるかもしれない。

この「残すか捨てるか」の判断は、個人の記憶の問題と同じ構造を持っている。忘れることは何かを失うことだと感じる。しかし、すべてを覚えておくことで判断が鈍ることもある。この問いに対して、認知心理学と哲学の両方が一つの答えを出している。忘却は故障ではなく、脳が備えた適応機能だということだ。

02忘却は認知の故障ではなく、記憶を使いやすくする適応機能だ

Andersonら(2021)はAnnual Review of Psychologyに発表した論文で、忘却が前頭前皮質の能動的な制御によって機能する適応メカニズムであることを示した。記憶が消えるのではなく、前頭前皮質が「いま必要でない記憶」へのアクセスを抑制する。抑制された記憶は消失していない。ただ、検索の優先順位が下がる。

図 1 忘却の適応機能
能動的制御検索効率向上複数の記憶が競合同じ手がかりに結合前頭前皮質が抑制必要な情報を検索干渉が減る能動的制御検索効率向上複数の記憶が競合同じ手がかりに結合前頭前皮質が抑制必要な情報を検索干渉が減る
忘却は記憶の故障ではなく、前頭前皮質が競合する記憶を抑制し、必要な情報の検索を助ける適応機能である。

この仕組みによって、必要な情報が競合する記憶に邪魔されずに取り出せるようになる。Bjork Learning and Forgetting Labの研究が示すように、記憶はときに「アクセスしやすすぎることが問題」であり、記憶の状態は認知目標に合わせて能動的に調整される必要がある。忘却は記憶のシステムの欠陥ではなく、設計の一部だ。

03すべてを覚えておくことは、判断を遅くし、誤りを増やす

比較項目全保持能動的忘却
検索速度干渉で低下抑制で高速化
判断精度古い情報が干渉関連情報に集中
心理的負荷過去に引きずられる現在に集中できる

Bjork(1992)のNew Theory of Disuseは、古い情報が高いアクセス性を維持したまま残ると、新しい情報の検索が干渉を受けることを理論的に示した。3年前の判断根拠が今日の規制環境に合わなくなっていても、それが記憶の中で高い優先順位を保っていれば、新しい規制の要件を検索するときに干渉が起きる。

Philosophy Nowに掲載されたニーチェの言葉は、この現象を別の角度から照らしている。「忘却なくしては幸福も朗らかさも希望も誇りも現在もありえない。」すべてを覚えておくことが人間にとって自然な状態ではなく、忘れることが精神の健康を支えている。ニーチェはこの直観を哲学として述べた。次の節で見るように、Andersonらはその仕組みを実験で特定している。

04ニーチェが1887年に定義した「精神の門番」は、現代の脳科学で前頭前皮質の抑制制御として実証された

ニーチェ(1887)

忘却は惰性ではなく能動的な抑制力であり、精神の秩序と静寂を守る門番である。

Anderson(2021)

前頭前皮質が不要な記憶への検索を能動的に抑制し、必要な情報の取り出しを助けることが実験で示された。

ニーチェは『道徳の系譜学』(1887)の中で、忘却を「能動的な力」として定義した。De Gruyterに掲載された研究論文の表現を借りれば、「ニーチェは忘却の能動的な力を意識への門番として同定し、精神の秩序と落ち着きと礼節を守るものとした」。これは19世紀の思弁ではない。Andersonらの2021年の実験は、まさにこの「門番」の働きを前頭前皮質の抑制制御として特定した。哲学の仮説が、実験室で確かめられた。

05AIが全記録を保持できる環境では、人間の仕事は記憶から選択に変わる

図 2 AIと人間の記憶の役割分担
AI(記憶する側)人間(選ぶ側)提示を受けて全記録を保持検索・照合過去の判例を提示漏れなく抽出何を参照するか選ぶ判断を下す文脈を読むAI(記憶する側)人間(選ぶ側)提示を受けて全記録を保持検索・照合過去の判例を提示漏れなく抽出何を参照するか選ぶ判断を下す文脈を読む
AIが全記録を保持する環境では、人間の仕事は記憶することではなく、提示された情報から何を参照し何を無視するかを選ぶことに移る。

生成AIを導入した資材審査の環境では、過去の審査記録をAIが無期限に保持し、全文検索できるようになりつつある。Harvard Business Reviewが「AIと心理的安全性についてリーダーが知るべきこと」を論じたように、AIが記録を持つ環境では人間の心理的負荷の質が変わる。忘れることへの不安が減る代わりに、「AIが提示した情報のうち何を採用するか」という新しい判断が加わる。

ここで能動的忘却の価値が逆説的に高まる。AIは忘れない。しかし人間には忘れる力がある。Andersonらが示した能動的忘却は記憶の抑制だが、同じ前頭前皮質がAIの提示情報に対しても「いま不要な情報を退ける」注意の制御を担う。AIが過去の全判例を提示したとき、その中から今の案件に関連するものだけを選び、残りを退ける能力が、審査の精度を決める。人間の役割は「覚えておくこと」から「何を参照し何を無視するかを選ぶこと」に移る。販売情報提供活動に関するガイドラインが求める「資材等の適切性の確保」は、この選択の質に依存している。

06検索干渉が起きるのは、古い記憶と新しい記憶が同じ手がかりに結びついているからだ

手がかりの共有

同じカテゴリーに属する複数の記憶が、検索時に同時に活性化する。

競合と抑制

検索対象を取り出すために、競合する記憶が抑制され、以後のアクセス性が低下する。

適応としての忘却

この抑制は故障ではなく、検索を効率化するための脳の設計である。

Andersonの検索誘導性忘却(retrieval-induced forgetting)の研究が示すように、同じ手がかりに結びついた複数の記憶は検索時に競合する。Frontiers in Psychologyに掲載された論文は、「検索誘導性忘却は、対象の検索を促進するための抑制プロセスの結果と考えられる」と報告している。資材審査で「過去に似た案件があった」と思い出そうとするとき、3年前の案件と1年前の案件が同じ「類似案件」という手がかりに結びついていれば、両方が同時に活性化する。そのときに古い方が抑制されることで、より関連性の高い新しい案件が取り出しやすくなる。

これが能動的忘却の具体的な仕組みだ。古い記憶が消えるのではなく、新しい検索のために一時的に後退する。記録を整理するとき、捨てるのではなく「アクセスの優先順位を下げる」という選択肢が存在する。

07記録整理の3つの基準が、能動的忘却を制度にする

図 3 記録整理の3つの基準
次に次に規制の有効性現行法に照らす再発の可能性再発防止への寄与誤りの教訓か次に次に規制の有効性現行法に照らす再発の可能性再発防止への寄与誤りの教訓か
この3基準で残すものを選ぶことが、能動的忘却を制度にする。

審査記録の整理を個人の記憶力や判断に任せず、制度として行うために、3つの基準で残すものを選ぶ。

第一に、判断根拠が現行の規制に照らして有効かどうか。規制環境は変わる。3年前に有効だった根拠が、改正されたガイドラインや新しい通知のもとでは通用しないことがある。現行の規制に照らして有効な根拠だけを参照可能な状態に保つ。

第二に、同種の審査が今後発生するかどうか。過去に一度しか発生しなかった特殊な案件の記録は、再発の可能性が低い。一方、繰り返し発生する定型的な判断の根拠は残す価値が高い。

第三に、誤りの再発防止に必要かどうか。過去の審査で誤りがあった場合、その誤りの記録と修正の経緯は、再発防止のために保持する意味がある。ScienceDirectに掲載された意図的忘却の研究が示すように、忘却を制御するには「何を忘れるか」ではなく「何を覚えておくか」の基準を先に決める必要がある。

この3基準で残すものを選ぶことが、能動的忘却を個人の習慣ではなく制度にする。AIが全記録を保持する環境でも、人間が参照する記録の範囲を基準に従って絞ることで、判断の速度と精度を維持できる。

  1. 忘却は認知の故障ではなく、前頭前皮質が競合する記憶を能動的に抑制し、必要な情報の検索を助ける適応機能である(Anderson, 2021)
  2. AIが審査記録を無期限に保持できる時代に、人間の役割は記憶することから「何を参照し何を無視するかを選ぶこと」に変わる
  3. 記録整理の3基準(規制の有効性・再発の可能性・再発防止への寄与)で残すものを選ぶことが、能動的忘却を制度にする
結語

忘れることは失うことでも身軽になることでもない。何を覚えておくかを選ぶ行為であり、その選択の質が、審査の判断の質を決める。AIが忘れない時代だからこそ、人間の「忘れる力」は制度として守る価値がある。

  1. Annual Review of Psychology「Active Forgetting: Adaptation of Memory by Prefrontal Control」Anderson et al., 2021年1月 https://www.annualreviews.org/content/journals/10.1146/annurev-psych-072720-094140
  2. De Gruyter「Active Forgetting and Healthy Remembering in Nietzsche」2024年8月 https://www.degruyterbrill.com/document/doi/10.1515/agph-2023-0065/html
  3. UCLA Bjork Learning and Forgetting Lab「Research」 https://bjorklab.psych.ucla.edu/research/
  4. Philosophy Now「To Forget or To Remember?」2020年4月 https://philosophynow.org/issues/137/To_Forget_or_To_Remember
  5. Harvard Business Review「What Leaders Need to Know About AI and Psychological Safety」2026年9月 https://hbr.org/2026/09/what-leaders-need-to-know-about-ai-and-psychological-safety
  6. 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」2018年9月25日 https://www.mhlw.go.jp/content/000359895.pdf
  7. Frontiers in Psychology「Retrieval-induced forgetting in item recognition」2017年3月 https://www.frontiersin.org/journals/psychology/articles/10.3389/fpsyg.2017.00432/pdf
  8. ScienceDirect「Comparing Methods to Study Intentional Forgetting in the Lab and in the Field」2026年 https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S259026012600007X