「これは良い、これは悪い」── そう言える距離を持っているとき、私たちは安心します。線を引けば世界は単純になり、判断は速くなる。しかし同じ線が、自分を縛り、他者を遠ざけ、ときには大事なものを見えなくします。本稿は、良し悪しという線を 消す のではなく、引いている自分を見る ための章です。ニーチェの善悪の彼岸から禅の不二、老子の陰陽、儒教の中庸、Isaiah Berlin の価値多元主義まで ── 5 つの伝統が、線の引き方を別々の角度から照らし出します。

01「正しさ」へのこだわりは、何を保とうとしているのか

資材審査員にとって「正しさ」は職業の核です。条文に照らし、根拠を確かめ、誤りを止める。その積み重ねが信頼を支えている。しかし、たまにふと立ち止まると、奇妙な瞬間に気づきます。「自分はなぜ、これに こんなにも こだわっているのか」。問題の大きさを超えて、自分のなかで何かが燃えている瞬間です。

こだわりの裏には、必ず 守ろうとしている何か があります。患者さんの安全という大きな価値もあれば、自分の専門家としての面目という小さな価値もある。同じ「正しさへのこだわり」のなかに、両方が混ざっている。線を引くたびに、私たちは自分の価値の地図を露わにしています。良し悪しにこだわる意味は、線を引く先ではなく、線を引く自分のなかにある

02ニーチェ ── 善悪の "彼岸" を覗く

1886 年、フリードリヒ・ニーチェ は『善悪の彼岸』を発表しました。タイトルは挑発的ですが、彼が言いたかったのは「善悪を捨てろ」ではありません。「あなたが "善" と "悪" と呼ぶものが、どこから来たのかを見よ」という、もっと厄介な提案でした。

「善悪の彼岸に立つこと ── それは、善悪を超越することではなく、自分が善悪を作っているプロセスを見ることだ」── F. ニーチェ『善悪の彼岸』(1886) より趣旨を凝縮

ニーチェの分析は徹底しています。私たちが「これは善い」と感じるとき、その背後には歴史、文化、教育、生存戦略がある。「善」と感じる感覚は 純粋 ではなく、何重もの層で 構築 されている。同じことが「悪」にも言える。だから良し悪しを問うときは、「何が善か」だけでなく「私はなぜ、これを善と感じるのか」を同時に問う 必要があります。

これは資材審査に直結します。「この表現は不適切だ」と感じる瞬間に、その感覚はどこから来ているのか。条文の解釈か、業界の慣習か、個人的な感性か、過去のトラウマか。線の出どころを見ない限り、線そのものは検証できません。ニーチェはこの作業を「彼岸に立つ」と呼びました。

03禅の不二 ── 良し悪しを超えた地点

東洋の系譜は、別の入り口から同じ場所を見ています。禅の 不二(ふに) は、有名な言葉です。良し悪し、美醜、生死、自他 ── これらの対立を 絶対の対立ではなく、相互の関係として 見るための言葉。

至道無難、唯嫌揀擇。但莫憎愛、洞然明白。
── 至道(究極の道)は難しからず、ただ揀擇(えり好み)を嫌うのみ。憎しみと愛が無ければ、すべては洞然と明白である。(僧璨『信心銘』第三祖、6 世紀)

禅が言うのは「好き嫌いをなくせ」ではありません。好き嫌いに巻き込まれない距離を持て ということです。良し悪しの判断はする。判断したまま、判断に飲まれない。判断と自分のあいだに、一枚の薄い すきま を保つ。これが不二の実践です。

不二は、相対主義とも違います。「良いも悪いも同じ」ではなく、「良いも悪いも、いま自分の心が引いた線である」と知ったうえで、なお線を引く。引いた線を絶対化しない。判断する力と、判断を疑う力を同時に持つ。これは審査員にとって、おそらく最も実践的な精神の使い方です。

04老子の陰陽 ── 良いものは必ず悪いものを含んでいる

老子は、対立をさらに動的に捉えます。良いものは、それ自体のなかに悪いものの芽を含んでいる。逆もまた然り。これが 陰陽(いんよう) の論理です。

天下皆知美之為美、斯惡已。皆知善之為善、斯不善已。
── 天下は皆な美の美たるを知るも、斯(これ)は悪(醜)のみ。皆な善の善たるを知るも、斯は不善のみ。(『道徳経』第二章)

少しわかりにくい一節ですが、こう読めます。「美」を「美」として固定した瞬間に、それは「美しくないもの」を生み出す。「善」を「善」として固定した瞬間に、それは「善くないもの」を作り出す。線を引く行為そのものが、対立を生む。だから、線を引く必要があるときは引きながら、線を引いたことの代償を見ておく必要がある。

実務でいえば、「これは公正な審査」と決めると、必ず「これは不公正な審査」が生まれる。「これは患者さんのため」と決めると、「これは患者さんのためでないもの」が見えてくる。線は機能を持つが、線そのものは絶対ではない。陰陽の論理は、こだわりを保ちつつ、こだわりを疑う両方を要求します。

05儒教の中庸 ── 線の "ちょうど良さ" を探す

儒教の 中庸(ちゅうよう) は、しばしば「真ん中を取る」と誤解されますが、実際にはもっと精密な概念です。『中庸』(『礼記』中庸篇、または朱熹の四書本)はこう言います。

喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。
── 喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中(ちゅう)と謂(い)う。発して皆な節に中(あ)たる、之を和(わ)と謂う。(『中庸』第一章)

感情が出ていない静かな状態を「中」と呼び、感情が出てもそれが 節(度合い) に合っている状態を「和」と呼ぶ。中庸とは、平均値ではなく、状況に対する正しい応答 です。激しく怒るべき場面では激しく怒り、抑えるべき場面では抑える。重大な逸脱には強く線を引き、些末な好みの差には線を緩める。アリストテレスの穏和(第 4 回 vol-04 参照)と驚くほど似た構造をしています。

儒教の中庸は、良し悪しのこだわりを 放棄 するのではなく、状況適合性 に変える知恵です。線を引くことは大事。しかし、いつ・どこに・どの強さで引くかが、それ以上に大事です。

06Isaiah Berlin ── 価値は複数あり、しばしば衝突する

20 世紀の政治哲学者 Isaiah Berlin (1909–1997) は、現代の文脈で 価値多元主義(value pluralism) を提示しました。人間の価値は複数あり、しばしば互いに衝突する。自由と平等、正義と慈悲、効率と公正、安全と自律。どれも捨てがたく、しかも同時には満たせない。これが Berlin の見た人間の条件でした。

「諸々の究極の価値は、客観的に存在する。しかしそれらは、人間が一つの公式に組み込める形で並んでいるわけではない。価値は衝突する ── これが、人間の人生の性質の一部である」── Isaiah Berlin『自由論』(1969 / 改訂 1990)

Berlin が示すのは、絶望ではなく成熟です。一つの価値が他のすべてに勝るという 独裁的な道徳観 から離れること。たとえば「患者さんの安全」と「企業の存続」が衝突する場面で、片方を絶対化すればもう片方は犠牲になる。Berlin はそういうとき、選択の重さを背負ったまま選ぶ ことを求めました。

これは資材審査のグレーゾーン判断にそのまま当てはまります。「最も安全な判断」と「最も有用な情報の提供」は、いつも一致するわけではない。「規範への忠実」と「現場の実情」もずれることがある。Berlin の価値多元主義は、正解はない ことを認めた上で、それでも責任を持って線を引く成熟を要求します。

07「良し悪し」を観察する 4 つの問い

こだわりを観察するための 4 つの問いを置きます。線を引いた直後、あるいは強い反応をした直後に、ひとつだけ問うてみてください。

問い 1

この "良し悪し" の感覚は、どこから来たのか

ニーチェの問い。条文か、業界規範か、個人の感性か、過去の経験か。出どころを言語化すると、線の性格が変わる。

問い 2

この線を引くことで、私は何を失っているか

老子の陰陽。良いものを定めれば、その裏側で何かが捨てられている。捨てたものを意識しないと、線は暴走する。

問い 3

線の強さは、状況の重さに合っているか

儒教の中庸 + アリストテレスの穏和。重大な逸脱に強く、些末な差に緩く。線の 強度 を状況に合わせる訓練。

問い 4

どの価値が、どの価値と衝突しているのか

Berlin の問い。安全と有用性、公正と効率、慎重さと迅速さ ── どの価値とどの価値が、いま私の中でせめぎ合っているのか。

08製薬の現場で ── "正しさ"の強度を選ぶ

資材審査の机の上で、こだわりは日々試されます。すべての指摘を同じ強度で行えば、本当に守るべき一線が「うるさい人の小言」のなかに埋もれてしまう。逆に強度を弱めすぎると、患者さんの安全が脅かされる。こだわりは強度を選ばないと機能しない

そのために必要なのは、自分の中の優先順位を 言語化 することです。「私は何を絶対に譲らないか」「何は対話で調整できるか」「何は相手の判断を尊重できるか」── これを内側ではっきりさせると、外側の判断も明確になります。

強度の階層を持つ審査員は、相手にとっても予測可能になります。「あの人が強く言うときは、本当に重大なことだ」と理解される。逆に、すべてに同じ強さで反応する審査員は、信頼を浪費し、本当に大事なときに届かなくなります。こだわりの設計は、自分のためだけでなく、伝わるための作法 でもあります。

09こだわりが暴走する 3 つの瞬間

こだわりは、しばしば自覚なく暴走します。よく観察される 3 つのパターンを置きます。

パターン 1

過去の傷の補填

過去に "妥協" して悔やんだ経験を持つ人は、似た場面で過剰に厳しくなりやすい。線が現在のためでなく、過去の自分のために引かれている。

パターン 2

影の投影 (第 1 回ユング)

自分のなかにある "甘さ" を認めない人は、相手の "甘さ" に過剰反応する。線が他者ではなく、自分の影を遠ざけるために引かれている。

パターン 3

役割の硬化

「公正な審査員でなければならない」というペルソナが、自分の柔軟性を縛る。線が職業の核心ではなく、職業上のイメージを守るために引かれている。

三つとも、線が 機能 から 防衛 に変質した瞬間です。気づければ、線を引き直せます。気づかなければ、同じパターンが繰り返されます。

10線を引く自分を、もう一度見る

良し悪しにこだわる意味は、線を引くことを止めることではありません。線を引いている自分を、線と一緒に見られるようになる ことです。ニーチェの彼岸、禅の不二、老子の陰陽、儒教の中庸、Berlin の多元主義 ── どれも「線を引かない」ではなく、「線を引きながら、引いている自分を見る」という二重の態度を求めています。

その二重の態度は、職業人としての成熟を分けます。線を引いて、その線を守り、しかし線が絶対でないことを知っている。状況によっては引き直す勇気と、引き直さない強さを、両方持つ。良し悪しは消えませんが、良し悪しに飲まれない。

結語

良し悪しにこだわる意味は、線を引く先ではなく、線を引いている自分のなかにあります。ニーチェは線の出どころを問えと言い、禅は線に飲まれない距離を持てと言い、老子は線が生む対立を見よと言い、儒教は線の強度を状況に合わせよと言い、Berlin は線が必ず別の価値を犠牲にすることを忘れるなと言いました。五つの伝統が、一つの態度を別々の言葉で指している。

明日の机の上で、また線を引くでしょう。引いてください。ただ、引いたあとに一瞬だけ、引いた自分を見てください。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 「正しさ」へのこだわりの背後には、必ず守ろうとしている何かがある。線の出どころを問うことが、線そのものを検証する出発点。
  2. 五つの伝統(ニーチェ、禅、老子、儒教、Berlin)は、線を消すのではなく、線を引きながら線を絶対化しない二重の態度を求めている。
  3. こだわりは強度を選ぶ。重大な逸脱には強く、些末な差には緩く。強度の階層が、職業人としての信頼を作る。
出典・参考文献
  1. Nietzsche, Friedrich. Jenseits von Gut und Böse. Leipzig: C. G. Naumann, 1886. (邦訳: 木場深定訳『善悪の彼岸』岩波文庫, 1970)
  2. 『六祖壇経』(中国, 唐, 7–8 世紀). 不二の説. (邦訳: 中川孝『六祖壇経』筑摩書房「禅の語録」, 1976)
  3. 老子『道徳経 (老子)』(中国, 前 4 世紀頃). 第二章「美悪相生」. (邦訳: 蜂屋邦夫訳注『老子』岩波文庫, 2008)
  4. 子思『中庸』(中国, 前 5 世紀頃). (邦訳: 金谷治訳注『大学・中庸』岩波文庫, 1998)
  5. Berlin, Isaiah. "Two Concepts of Liberty." Oxford: Clarendon Press, 1958. (価値多元論の代表的論述). (邦訳: 小川晃一・小池銈他訳『自由論』みすず書房, 1971)
  6. Berlin, Isaiah. The Crooked Timber of Humanity. London: John Murray, 1990. (邦訳: 河合秀和訳『理想の追求 ── 人類が辿った曲がりくねった道』みすず書房, 1992)