第 6 回までで、過信が起きる構造、観察するサイン、学習を妨げる仕組みを辿りました。本回は本シリーズの倫理的な核に近づきます ── 過信の対極は何か。直感的には「自信を失うこと」「謙遜すること」と思われがちですが、これは半分しか正しくない。本シリーズの中心命題は、過信の対極は 無自信 ではなく 中庸 (the mean) にある、ということです。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で立てた徳の三項構造、孔子の『中庸』、デヴィッド・ボーム (1917–1992) のダイアログ論と "保留"、エドガー・シャイン (1928–2023) の謙虚な問い、ポーター・デイビス (Don E. Davis) らの知的謙遜 (Intellectual Humility) の現代実証研究、龍樹 (Nāgārjuna, c. 150–250) の中論 ── 六つの伝統が、別々の言葉で 自信と過信のあいだに本物の中庸がある という同じ場所を指してきました。本回はその中庸を、観念ではなく日々の実践として持つための語彙を立てます。

01なぜ "中庸の問い" が必要か

本シリーズの最初の六回で扱ってきたのは、過信を 減らす 方向でした。観察し、識別し、学習を再起動する。しかしここで、思考実験を立ててみます。もし過信が完全に消えたとしたら、何が残るか。残るのは、判断のたびに信頼区間を広く取り、確信を弱め、決断を遅らせる人 ── つまり、有能な判断者の対極です。

過信の修正が無自信に振り切れるリスクは、現実的なものです。本シリーズの初期からの読者なら、本回までに自分の過去の判断に対する自信が少し揺らいでいるかもしれません。それは健康な反応です。ただし、その揺らぎを判断の停滞へと放置することは、過信と同じくらい有害です。本物の判断者は、過信せず、無自信にもならない。その狭い帯域に立ち続ける。これが本回が立てる中心命題です。

「徳とは過剰と不足のあいだの中庸である。中庸は単なる平均ではなく、状況・対象・自分の状態に応じて、その都度発見されるべきもの。だから、徳の習得は規則の習得ではなく、判断力の練磨である」── アリストテレス『ニコマコス倫理学』(BC 4 世紀) 第 2 巻第 6 章より趣旨

アリストテレスの言葉は、本シリーズの倫理的な核を直接示しています。中庸は規則として与えられるのではなく、状況のなかで 発見される。だから本回が提供するのは、固定された答えではなく、その帯域を見つけるための問いの形 です。前半 (第 2 節〜第 6 節) で六つの伝統を辿り、後半 (第 7 節〜第 10 節) で現代実証研究と現場の場面に降ろします。

02アリストテレスの三項構造 ── 徳と中庸

過信と謙虚さのあいだの中庸を、最も体系的に言語化したのは、古代ギリシャの哲学者 アリストテレス (BC 384–322) です。彼が紀元前 4 世紀に書いた『ニコマコス倫理学 (Ἠθικὰ Νικομάχεια)』は、西洋倫理学の基礎を作った書物として、いまも読まれ続けています。

アリストテレスの徳論の鍵は、徳 (arete) は二つの悪徳のあいだの中庸である という三項構造です。たとえば勇敢の徳は、無謀 (過剰) と臆病 (不足) のあいだの中庸にあります。寛大の徳は、浪費 (過剰) と吝嗇 (不足) のあいだにあります。各々の徳が、過剰と不足の両極の あいだ に位置づけられます。

過剰

過信 (Overconfidence)

自分の判断の正確さを実際より高く見積もる。信頼区間を過度に狭く設定する。反証情報を遠ざける。Moore & Healy の Overprecision (第 1 回)。

中庸

本物の自信 (Eutrapelos)

判断の信頼区間を正確に持つ。確信が必要な場面では確信を持ち、不確実な場面では不確実性を抱える。状況に応じて確信度を調整する判断力。

不足

無自信 (Diffidence)

判断の正確さを実際より低く見積もる。決断を遅らせる。専門性のある領域でも疑いに揺れ続ける。本物の自信ではなく、自我の引きこもり。

含意は深い。過信を減らす目的は、無自信になることではなく、中庸の判断力を育てることである。本シリーズの第 1 回〜第 6 回で扱ってきた防衛機制への観察、サインの読み、学習の再起動 ── これらすべての作法は、無自信のためではなく、中庸の判断力のための訓練です。アリストテレスの言葉でいえば、過信を恐れて自信そのものを失うことは、もうひとつの徳の失敗。本回が立てる視点は、ここから始まります。

03孔子の "中庸" ── 過不足の絶対性

同じ三項構造を、東洋の伝統で最も体系的に言語化したのが、儒家の経典 『中庸 (中庸)』 です。これは伝統的には孔子の孫 子思 (BC 5 世紀頃) の著作とされ、後に『大学』『論語』『孟子』とともに四書のひとつとして儒学の中心経典となりました。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆な節に中る、これを和という。中は天下の大本なり、和は天下の達道なり (喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也)」── 『中庸』第一章

『中庸』の "中" は、単なる "ちょうど真ん中" ではありません。それは 節 (せつ) に中る (あたる) ── つまり、状況の節度・道理に対して的確に応える状態を指します。アリストテレスの中庸が状況のなかで発見されるのと同じ性質のものです。両者は別の言語で同じ場所を指しています。

『中庸』第二章には、本回の主題に直接届く一句があります。

「君子の中庸や、君子にして時に中る。小人の中庸や、小人にして忌憚する所無し (君子之中庸也、君子而時中。小人之反中庸也、小人而無忌憚也)」── 『中庸』第二章

"時に中る (じにあたる)" ── 状況のその都度に応じて、的確な位置に立つ。これは固定された規則の遵守ではなく、判断力そのもののあり方です。本シリーズ全体で扱ってきた "サインを読む" "学習を再起動する" "防衛機制を観察する" の作法は、すべて 時に中る ための準備運動です。中庸は静止状態ではなく、動き続ける判断のなかで保たれる動的均衡です。

04Bohm のダイアログと "保留 (suspension)"

20 世紀のなかで、過信と無自信のあいだの中庸を、対話の場における実践として最も鋭く言語化したのが、米国の物理学者 デヴィッド・ボーム です。彼が晩年に書いた『On Dialogue』(1996 年、死後出版) は、組織開発・教育・心理療法の領域で広く読まれる古典になりました。

Bohm のダイアログ論の中心概念が 保留 (suspension) です。これは、自分の判断や信念を捨てることではありません。捨てもしなければ、押し付けもしない。判断を いったん宙吊りにして、そこから観察できる位置に置く。これは過信と無自信のあいだの帯域を、対話の文脈で言語化した概念です。

「保留とは、自分の意見や仮定を放棄することではない。それは、自分の意見を保持しつつ、それを宙に吊って、自分自身がそれを観察できるようにする行為である。これは抑圧でも、放棄でも、固執でもない、第四の態度である」── David Bohm『On Dialogue』(1996) より趣旨

"第四の態度" という Bohm の言い方は重要です。一般に、自分の判断に対しては三つの態度が考えられます ── 抑圧する (黙る)、放棄する (引き下がる)、固執する (押し通す)。Bohm はこれらすべてに対して、保留する という第四の道を立てました。この第四の道が、本回が描こうとしている中庸の対話的な現れです。

抑圧

判断を表に出さない

会議で異議を持ちながら口に出さない。集団思考に従う。第 3 回の防衛機制の "抑圧" と同じ構造。

放棄

判断を捨てる

反論を受けたとき、自分の判断を簡単に下ろす。無自信の側に振れた状態。中庸の不足。

固執

判断を押し通す

反論を受けたとき、聞かずに自分の判断を主張し続ける。過信の側に振れた状態。中庸の過剰。

保留

判断を宙吊りにする

自分の判断を保持しながら、それを観察可能な位置に置く。反対意見を真に聞ける。Bohm の第四の態度。中庸。

保留の実践は、資材審査の会議文化を考えるとき、決定的に重要な道具です。判断は持つ、しかし固執しない。意見は表明する、しかし押し付けない。反論を聞く、しかし簡単には捨てない。この帯域に立ち続ける訓練が、Bohm のダイアログ論の中心です。

05謙虚な問い (Humble Inquiry) ── Schein の対話論

Bohm のダイアログ論を、組織のリーダーシップと対話の実践として展開したのが、MIT の組織心理学者 エドガー・シャイン です。2013 年の『Humble Inquiry』は、本シリーズの "経営者の視点" 第 6 回でも扱ったことがありますが、本回の文脈では、過信と無自信のあいだの中庸を対話の作法として持つ視点を提供します。

「Humble Inquiry とは、自分が答えを持っていないことを認め、相手への純粋な関心から問う作法である。"自分の意見を確認する問い" でも "相手を誘導する問い" でも "知らないふりをする問い" でもなく、"自分が本当に知らないことを、相手から教えてもらう問い"」── Edgar Schein『Humble Inquiry』(2013) より趣旨

Schein の "謙虚な問い" の核心は、それが 無自信ではない ことです。問う側は、自分の専門性や経験を放棄するのではありません。むしろ 自分の専門性を抱えたまま、知らない部分について真摯に問う。これは過信 (すべてを知っているふりをする) と無自信 (専門性そのものを下ろす) のあいだの、まさに中庸の作法です。

Schein は質問を三つに分類しました。診断的問い (diagnostic question) ── 相手から特定の情報を引き出すための問い。対決的問い (confrontational question) ── 自分の判断を相手にぶつける問い。謙虚な問い (humble question) ── 自分の枠組みを開いて、相手の知に学ぶ問い。三つは互いに排除しないが、専門家は無意識のうちに前二者に偏る傾向を持つ。本回の文脈で重要なのは、謙虚な問いは、専門性を持つ人にこそ難しい ということです。

06知的謙遜 (Intellectual Humility) ── 現代実証研究

過信と無自信のあいだの中庸を、現代心理学の実証研究として最も体系的に進めているのが、知的謙遜 (Intellectual Humility, IH) の研究領域です。米国の心理学者 ポーター・デイビス (Don E. Davis) らが 2010 年代から進めている実証研究は、知的謙遜の概念を測定可能な変数として定義し、その効果を実証しました。

Davis らが提示した知的謙遜の定義は、次の四つの要素を持ちます。知識の限界の認識自分の信念の修正可能性への開放性反対意見への真摯な関与知的優位性の主張からの距離。これら四つは、過信の対極でもなければ、無自信でもありません。中庸の四つの側面です。

「知的謙遜は、自分の信念を疑い続けることでも、自分の専門性を否定することでもない。それは、自分の知識と信念の "境界" を正確に認識し、その境界を超える領域に対しては開かれた姿勢を保つ、認知の作法である」── Don E. Davis et al.『Journal of Positive Psychology』(2016) より趣旨

Davis らとその後の研究者たちが実証研究で示した発見は、本シリーズの命題と整合します。知的謙遜は、独立変数 として、判断の質、対人関係の質、学習能力、リーダーシップの効果性に正の影響を持ちます。一方で、無自信や自己卑下は、同じ結果変数に対して負の影響を持ちます。知的謙遜と無自信は、表面的には似ていても、心理学的にも実証的にも別の現象である ── これが Davis らの研究の中心的な発見です。本回が立てる中庸の実証的な裏付けでもあります。

07仏教の中道と無我 ── 過信と無自信の同時超克

過信と無自信のあいだの中庸を、最も根本的に哲学化したのが、インドの仏教思想です。仏教は最初から 中道 (madhyamā pratipad) を中心教義のひとつとしました。釈尊が初転法輪 (鹿野苑での最初の説法) で説いたのは、欲楽の追求と苦行のあいだの中道だったとされます。両極のいずれもが本物の解放にならない、と彼は説きました。

この中道を、論理的に最も精緻に展開したのが、紀元 2 世紀のインドの哲学者 龍樹 (ナーガールジュナ) です。彼の主著『中論 (Madhyamaka-kārikā)』は、後の大乗仏教思想 ── 特に中観派 ── の基礎を作りました。龍樹の中道論は、本回の文脈で読み直すと、過信と無自信の同時超克として理解できます。

「あらゆるものは縁起によって成立する。固定された自性 (svabhāva) を持つものはない。だから、"自分は確実に正しい" と思うこと (常見) も、"自分は何も知らない" と思うこと (断見) も、両方とも錯覚である。中道とは、両極のいずれにも執着しない、開かれた態度のことである」── 龍樹『中論』(c. 2 世紀) 第 24 章より趣旨

龍樹の言葉を、本回の主題で読み直すと、こうなります。"私は確実に正しい" と思うことも、"私は完全に間違っている" と思うことも、どちらも固定された自己像への執着である。中道は、両極のあいだの空っぽな帯域に立つことではなく、両極の あいだ を能動的に動き続けることです。これは仏教の言う 無我 (anātman) ── 固定された自己というものはない ── の実践的な現れでもあります。

含意は深い。資材審査の判断において、"私の判断は確実に正しい" の感覚と "私の判断は信用できない" の感覚は、両方とも自我への執着の形です。中庸は、両者のいずれでもない第三の場所 ── 判断は持ちながら、その判断を固定しない ── を能動的に保ち続ける作法です。これは Bohm の保留、Schein の謙虚な問い、Davis らの知的謙遜と、別の言葉で同じ場所を指しています。

08本物の自信は過信に対する自己監視と共存する

第 2 節から第 7 節までで、六つの伝統が指してきた中庸を辿りました。ここで一度、本シリーズ全体の構造を振り返ります。前シリーズ「自信を得るために」と本シリーズ「自分の過信に気づく」は、対立する書物ではなく、対の書物です。自信を立体的に組み立てる作法と、過信に気づく作法は、両輪として働きます。

前シリーズの第 8 回では、Albert Bandura (1925–2021) の自己効力感 (self-efficacy) を扱いました。彼の実証研究が示したのは、自己効力感の高い人ほど、課題に対する持続性・問題解決の質・心理的健康が高い、ということでした。これは本シリーズの命題と矛盾するように見えるかもしれません。自信を持つことと、過信を減らすことは、両立するのか

「本物の自己効力感は、過信ではない。それは、自分が何をできるかと、何をできないかを、正確に区別している状態である。自己効力感の高い人は、自分の限界を正確に認識し、それゆえに、その限界の中で確信を持って行動できる。境界の認識と、境界の中での確信は、両立する」── Albert Bandura『Self-Efficacy: The Exercise of Control』(1997) より趣旨

Bandura の言葉は、本回の中心命題と同じ場所を指しています。本物の自信は、判断の信頼区間を正確に持つことであり、その信頼区間の中では確信を持って行動することである。前シリーズで身体技法・認知の梃子・交渉の作法を磨いた人ほど、本シリーズの過信への自己監視を、無自信に振り切ることなく持続できる。両シリーズは、アリストテレスの中庸の両側を支える、対の作法です。

09製薬の現場で ── 中庸が試される 4 場面

抽象論を現場に下ろします。資材審査員の日々で、過信と無自信のあいだの中庸が最も明瞭に試される場面を、四つ取り出します。それぞれで、Bohm の "保留" の作法を実験してみてください。

場面 1

反対意見を受けた瞬間

自分の判断に反対意見が出たとき。固執するのも、すぐに下ろすのも、両方とも中庸ではない。"あなたの指摘を一晩考えさせてください"、"その視点をいま私の判断に重ねて再検討してみます" ── 保留の言語化が、中庸の実践になる。

場面 2

専門外の領域に踏み込むとき

自分の専門外の領域で判断を求められたとき。専門家ぶるのも、専門性そのものを下ろすのも、両方とも中庸ではない。"私の専門の範囲ではこう見えますが、〜の領域については別の視点が必要だと思います" ── 境界を明示しながら、自分の見方を提供する。Schein の謙虚な問いの実践。

場面 3

過去の判断が問題化したとき

過去の判断が後から問題視されたとき。完全に弁護するのも、全面的に否定するのも、両方とも中庸ではない。"あの判断の根拠としていた前提を、いま振り返ってどう評価するか" ── Argyris の二重ループ学習 (第 6 回) と中庸が、ここで重なる。

場面 4

後輩から質問を受けたとき

後輩や経験の浅い同僚から質問を受けたとき。"全部わかっている" 顔をするのも、"私も知らない" と引くのも、両方とも中庸ではない。"私が知っていることはこうですが、〜の部分については一緒に考えましょう" ── 専門性と謙虚さの共存。これは組織の学習文化を作る基盤でもある。

四つの場面に共通する構造は、判断を持ちながら、その判断を観察できる位置に置き続ける ことです。Bohm の保留、Schein の謙虚な問い、Davis らの知的謙遜、龍樹の中道 ── すべて、ここに収斂します。中庸は静的な平均ではなく、動的な均衡です。次節がその実践です。

10中庸を保つ 4 つの作法

中庸の判断力は、規則として与えられないため、習慣として育てるしかありません。本回の最終的な実践として、四つの作法を提案します。これらは、第 5 回の観察日記、第 6 回の学習を再起動する作法と、対をなす実践です。

作法 1

"保留" の言語を持つ

判断を持ちながら反対意見を聞くとき、即座に同意も反論もせず、"いま一度考えさせてください" "その視点を私の判断に重ねて検討します" の言葉を持つ。Bohm の保留を、日常の対話に組み込む。

作法 2

"境界の言語" を持つ

判断や意見を述べるとき、自分の知識と専門性の境界を明示する。"〜については確信があるが、〜については自信がない"、"私の専門の範囲ではこう見えるが、〜の領域は別の視点が必要"。Davis らの知的謙遜の言語的な実践。

作法 3

"両極の不健全さ" を覚えておく

判断に揺れたとき、過信と無自信の両方の不健全さを思い出す。固執と引きこもりは、両方ともアリストテレスの中庸の失敗。"いま私はどちらの極に振れていないか" を自問する。

作法 4

"動的均衡" として中庸を理解する

中庸を、固定された位置として求めない。状況・対象・自分の状態に応じて、その都度発見されるべきもの。アリストテレスと『中庸』の "時に中る" の理解。完成しないものとして、ずっと習慣化し続ける。

四つの作法に共通する原理は、中庸は到達点ではなく、保ち続ける動的均衡である ということです。本物の自信は、過信への自己監視と共存する。本物の謙虚さは、無自信ではない。両極のあいだの狭い帯域に立ち続ける訓練が、本シリーズの倫理的な核です。

結語

過信の対極は無自信ではない。それは中庸である ── 本回が辿ってきたのは、その命題でした。アリストテレスの三項構造、孔子の『中庸』、Bohm の保留、Schein の謙虚な問い、Davis らの知的謙遜の実証研究、龍樹の中道 ── 六つの伝統が、別々の言葉で同じ場所を指してきました。本物の判断者は、過信せず、無自信にもならない。その狭い帯域に立ち続ける。これは規則として持つものではなく、習慣として育てるものです。

残る三回は、本シリーズの最も実践的な部分に入ります。次回 (第 8 回) は、過信を減らす具体的な技法 ── キャリブレーション訓練と Pre-mortem ── を扱います。Lichtenstein らのキャリブレーション研究の系譜、Gary Klein の Pre-mortem 技法、Phil Tetlock のスーパー予測者の作法 ── 本シリーズで最も "工具箱" 的な性格を持つ回になります。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 過信の対極は無自信ではなく、中庸である。アリストテレスの三項構造、孔子の『中庸』、龍樹の中道 ── 三つの伝統が共通して指す、過剰と不足のあいだの狭い帯域。中庸を到達点ではなく、保ち続ける動的均衡として理解する。
  2. Bohm の "保留 (suspension)"、Schein の謙虚な問い、Davis らの知的謙遜の実証研究 ── 中庸の対話的・実践的な現れ。判断を持ちながら、その判断を観察できる位置に置く第四の態度。抑圧でも放棄でも固執でもない。
  3. 本物の自信は、過信に対する自己監視と共存する。前シリーズ「自信を得るために」と本シリーズは、対立する書物ではなく対の書物。Bandura の自己効力感の研究が示すように、境界の認識と、境界の中での確信は、両立する。
出典・参考文献
  1. アリストテレス. 『ニコマコス倫理学 (Ἠθικὰ Νικομάχεια)』BC 4 世紀. (邦訳: 高田三郎訳『ニコマコス倫理学』岩波文庫, 1971/1973 / 新訳: 渡辺邦夫・立花幸司訳『ニコマコス倫理学』光文社古典新訳文庫, 2015)
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  3. Bohm, David. On Dialogue. Edited by Lee Nichol. London: Routledge, 1996. (邦訳: 金井真弓訳『ダイアローグ ── 対立から共生へ、議論から対話へ』英治出版, 2007)
  4. Bohm, David & Peat, F. David. Science, Order, and Creativity. New York: Bantam, 1987. (Bohm の対話論の背景となる科学・思考論)
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  10. 龍樹 (Nāgārjuna). 『中論 (Mūlamadhyamakakārikā)』c. 2 世紀. (校註・邦訳: 三枝充悳訳註『中論 ── 縁起・空・中の思想』第三文明社, 1984 / 桂紹隆・五島清隆訳『龍樹 「根本中頌」を読む』春秋社, 2016)
  11. Bandura, Albert. Self-Efficacy: The Exercise of Control. New York: W. H. Freeman, 1997. (邦訳: 本明寛・野口京子監訳『激動社会の中の自己効力』金子書房, 1997)
  12. MacIntyre, Alasdair. After Virtue: A Study in Moral Theory. 3rd edition. Notre Dame: University of Notre Dame Press, 2007. (アリストテレス徳倫理学の現代的展開. 邦訳: 篠崎榮訳『美徳なき時代』みすず書房, 1993)