「これは正義の指摘だ」── そう確信した瞬間こそ、私たちは最も慎重になるべきです。前回 (vol-01) で扱った "正しさ" の次に来るのが、"正義" です。正しさは認識の問題ですが、正義は 振る舞いの問題 です。振り上げた刃の鋭さは、しばしば刃を振るう側の内面の硬さに比例します。本回が突きつけるのは、正義は本質的に二面性を持つ という事実です。Nietzsche、Rawls、Sandel、Gilligan、Arendt、親鸞、老子、Solzhenitsyn ── 八つの伝統が、別々の言葉で、自分の正義が誰かを傷つけている可能性を指さしてきました。

01正義という言葉の魅力と危険

正義は美しい言葉です。それを掲げる人は自分を高く感じられ、それに従う人は安心を得られ、それに反対する人は説明責任を負わされる。だからこそ、正義は政治、宗教、組織、家庭 ── あらゆる場面で動員されてきました。資材審査の現場も例外ではありません。「これは患者さんのため」「これは倫理的にあってはならない」── 正義の言葉は、私たちの判断を強くしてくれます。

同時に、正義は 振り上げた瞬間に、相手を切る刃 でもあります。正義を語る人と、正義を向けられた人のあいだには、しばしば対等性が消えます。「あなたは間違っている、私は正しい」という構造そのものが、対話を一方通行にする。そして、その瞬間に正義は、本来の目的(患者の利益、組織の倫理)からずれて、自分の優位性の確認 という別の機能を獲得することがあります。本回はこの "ずれ" を、八つの伝統に照らして直視します。

02Nietzsche「善悪の彼岸」── 善悪はしばしば権力の言い換え

フリードリヒ・ニーチェ (1844–1900) は、『善悪の彼岸』(1886) のなかで、善悪のラベルは中立的な評価ではなく、しばしば歴史的に特定の集団の利害を反映した命名である という強烈な命題を提示しました。

「人類のもっとも醜い真実のひとつは、これだ ── われわれが "善" と呼んでいるものの大半は、ただ "自分の側に都合がよい" の言い換えである」── ニーチェ『善悪の彼岸』(1886) より趣旨

ニーチェの命題は、しばしばニヒリズムとして読まれてきました。彼自身、自分の意図はそれではないと繰り返しています。彼が指すのは、もっと穏やかで深い場所です。自分が "善" や "正義" の言葉を使うとき、その言葉が指している対象は、本当に普遍的な善なのか、それとも自分の所属集団の利害なのかを、たえず自問せよ ということです。

資材審査の現場で「これは患者さんのため」と言うとき、その言葉が本当に患者さんのためなのか、それとも自分の判断の正当化のためなのか。「これは組織の信頼のため」と言うとき、本当に組織のためなのか、それとも自分の地位の保全のためなのか。ニーチェの問いは挑発的ですが、自己点検の道具としては鋭利 です。

03Rawls「無知のヴェール」── 正義は構造的にしか定式化できない

米国の政治哲学者 ジョン・ロールズ (1921–2002) は、1971 年の『正義論』のなかで、現代の正義論を再建しました。中核概念が 無知のヴェール (veil of ignorance) です。

「正義の原則を定めるためには、自分が誰であるか ── 性別、人種、階級、能力、社会的地位 ── を知らない状態(無知のヴェール)で、社会の基本構造を選び直さなければならない」── ジョン・ロールズ『正義論』(1971) より趣旨

ロールズの含意は強烈です。自分の立場を保持したまま下した "正義" の判断は、しばしば自分の立場を有利にする偏りを含んでいる。本当に公正な正義は、自分の立場が分からない状態で選んだときに選ぶであろう原則 ── そういう構造的な定式化が必要だ、と。

資材審査の現場で、「もしも自分が依頼者の立場だったら、この指摘をどう受け取るだろうか」「もしも自分が経営者だったら、この判断は妥当に見えるだろうか」── これらの問いは、無知のヴェールの応用です。立場を一時的に外して見ることで、自分の正義が立場依存的になっていないかを点検できます。

04Sandel「正義は単一原理に還元できない」── 多元的正義

ハーバード大学の政治哲学者 マイケル・サンデル (1953–) は、2009 年の『これからの "正義" の話をしよう (Justice: What's the Right Thing to Do?)』で、正義を単一の原理に還元することの危険を論じました。

「正義には少なくとも三つの異なる定式化がある ── 功利を最大化する正義、自由を尊重する正義、徳を養う正義。どれかひとつに還元しようとすると、他の二つが見えなくなる。現実の問題は、しばしば三つの正義の衝突として現れる」── マイケル・サンデル『これからの "正義" の話をしよう』(2009) より趣旨

サンデルが示すのは、正義の正解は、しばしば一つに決まらない という事実です。同じ事案について、功利主義者(全体の利益を最大化する)、リバタリアン(個人の自由を最大限尊重する)、徳倫理学者(共同体の善を育てる)が、まったく違う答えを出します。どれも筋が通っている。

製薬の現場で、「アクセスを広げるべき(功利)」「企業の知的財産は守るべき(自由)」「医療の品位を保つべき(徳)」── これらが衝突する場面は実際に頻発します。「正義は一つ」と信じている人は、しばしば他の正義に気づかないだけ。サンデルの整理を持っているだけで、自分の正義に "種類" のラベルを貼れるようになり、相手の正義との対話が可能になります。

05Gilligan「ケアの倫理」── 正義の外にある、もう一つの倫理

米国の心理学者 キャロル・ギリガン (1936–) は、1982 年の『もうひとつの声で (In a Different Voice)』のなかで、伝統的な "正義の倫理" の外側に、ケアの倫理 (ethics of care) があることを示しました。

「正義の倫理は、抽象的な原則と権利を中心にする。ケアの倫理は、具体的な関係と責任を中心にする。両者は対立するのではなく、補完する。しかし長い間、後者は前者の影に隠されてきた」── キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』(1982) より趣旨

ギリガンの研究が示したのは、"正しさ" だけで判断を下すと、関係性の中で起きていることが見えなくなる ということです。「この指摘は法令上正しい」と判断したとき、その判断を受け取る人とのあいだに、どんな関係性が立ち上がるか。関係性の質を犠牲にしてまで、正義を貫く価値があるのか。ケアの倫理は、正義の "刃" を振り上げる前に、もう一度問い直すべき視座 を与えてくれます。

06Arendt「凡庸な悪」── 正義感の硬直が、悪を生む

ユダヤ系ドイツ人の政治哲学者 ハンナ・アーレント (1906–1975) は、1963 年の『エルサレムのアイヒマン』で、ナチスのユダヤ人移送実務を担当したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、衝撃的な観察を残しました。

「アイヒマンは怪物ではなかった。むしろ、思考の停止と職務への忠実な遂行という、恐ろしいほど凡庸な性質を持っていた。これが私が "凡庸な悪 (banality of evil)" と呼ぶものである」── ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』(1963)

アーレントの命題は、しばしば誤読されてきました。彼女はアイヒマンを免罪しているのではありません。逆です。巨大な悪は、しばしば "自分は職務を正しく果たしている" という確信から生まれる ── これが彼女の指摘でした。組織のルール、上司の命令、自分の役割。それらに忠実に従うことが "正義" だと信じる思考の停止が、最大の倫理的災厄を生む。

資材審査の現場で、「私は規則どおりにやっている」「私は組織の方針に従っている」「私は職務として指摘している」── これらの言葉の裏に、自分の判断の停止が紛れ込んでいないか。アーレントの問いは、正義の最も静かで深い陥穽を指さしています。思考し続けない正義は、しばしば凡庸な悪に変わる

07親鸞「善悪不二」── 善人ですら、自分の善を疑う

東洋の系譜から、もっとも徹底した命題を引きます。親鸞 (1173–1262) は『歎異抄』(後 13 世紀) のなかで、自分自身を含めた人間の善悪判断の限界を、徹底的に解体しました。

われ、なにごともこころにまかせたることなれば、地獄行きこそありがたけれ。
── 自分の意のままに振る舞っているのだから、地獄に堕ちて当然である。(『歎異抄』第二条より要旨)

親鸞のこの逆説的な命題は、自分が "善" であると信じている自分を、根底から疑え という招待です。第 4 回(自己変革)で触れた "悪人正機" の延長です。自分が "善" を行っているという確信そのものが、しばしばもっとも警戒すべきもの ── これが親鸞が辿り着いた、人間の倫理的な底です。

資材審査の現場で、「私は正義の側にいる」と感じる瞬間に、親鸞の声を一度だけ思い出すと、振り上げた刃の角度が変わります。「私は本当に善の側にいるのか」 ── この問いを失わない人だけが、本当に正義に近づける

08老子「天地不仁」── 自然の冷たさが教える正義の越境

もう一つ東洋から。老子 の『道徳経』第五章の有名な一節です。

天地不仁、以萬物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。
── 天地は仁ならず、万物を芻狗(すうく:祭祀用の藁の犬)と為す。聖人もまた仁ならず、百姓を芻狗と為す。(『道徳経』第五章)

この一節は、極めて誤読されやすい箇所です。「天地は人間に対して冷たい」「聖人は民衆を物のように扱う」と表面的に読むと、虚無の哲学に見えます。老子の意図は別です。天地は、自分の "仁(慈愛)" を主張しない。だからこそ、すべてを公平に支える ── これが老子が指す方向です。

老子の含意は、ロールズの "無知のヴェール" と意外なほど近いところを指しています。自分の正義を強く主張するほど、その正義は偏ったものになる。逆に、自分の正義を主張せず、ただ事実と他者を平等に扱うとき、本当に公正な振る舞いが立ち上がる。振り上げない刃ほど、本当の正義に近い ── これは武術の達人の境地にも似た、老子的逆説です。

09Solzhenitsyn「善悪の線は、人間の心の中を通る」

ロシアの作家 アレクサンドル・ソルジェニーツィン (1918–2008) は、ソ連の強制収容所体験を記録した『収容所群島』(1973) のなかで、20 世紀の倫理学にとって決定的な一節を残しました。

「もし、すべての悪が一箇所に集まっていて、悪を行う邪悪な人々を残りの私たちから切り離せばよいのなら、それは簡単な仕事だ。しかし、善と悪を分ける線は、すべての人間の心の中を通っている。そして自分の心の一部を、誰が破壊する覚悟ができているか?」── アレクサンドル・ソルジェニーツィン『収容所群島』(1973)

ソルジェニーツィンの観察は、本回のすべての議論を凝縮します。悪は "向こう側" にあるのではなく、自分の心の中にもある。正義の刃を相手に振るう前に、その刃が自分の心の中の同じ線を切る覚悟があるか。製薬の現場で、不正を指摘するとき、組織の問題を告発するとき、相手を批判するとき ── 自分の中にも同じ性向があることを認識した上での指摘と、自分は無関係だと信じての指摘とは、まったく違う行為になります。

後者は、しばしば独善になり、相手を傷つけ、自分の中の同じ問題を見えなくします。前者は、慎重に、しかし誠実に、刃を必要なところに振るうことができます。「自分の心の中の同じ線」を覚悟した正義だけが、本当に届く正義になる ── これがソルジェニーツィンが収容所から持ち帰った教訓です。

10振り上げた刃を、ゆっくり下ろす 4 つの作法

八つの伝統が指し示した同じ場所を、日々の実践に落とすための 4 つの作法を置きます。正義の刃を捨てる作法ではなく、必要なときだけ、必要なだけ振るう ための作法です。

作法 1

ニーチェの問い ── 私の "善" は、本当に普遍的な善か

"善" "正義" の言葉を使う前に、その言葉が自分の所属集団の利害の言い換えになっていないかを自問する。瞬間的な自己点検で十分。

作法 2

ロールズの問い ── 立場を一時的に外したらどう見えるか

相手の立場、依頼者の立場、患者の立場 ── 自分の立場を一時的に外して、同じ判断を眺める。立場依存の正義に気づける。

作法 3

ギリガンの問い ── 関係性は、何を語っているか

抽象的な正しさだけでなく、いま自分が下している判断が、相手との関係性のなかでどう作用するかを観る。ケアの倫理を、正義の倫理の補助線として置く。

作法 4

ソルジェニーツィンの問い ── 同じ線が自分の中にもある

相手を批判する前に、その批判の対象が自分の中にもあることを認識する。"自分は無関係" の正義は、独善に変わりやすい。

結語

正義は美しい言葉です。しかし、振り上げた瞬間に、刃になります。Nietzsche、Rawls、Sandel、Gilligan、Arendt、親鸞、老子、Solzhenitsyn ── 八つの伝統が、別々の言葉で同じ場所を指していました。正義を捨てよ、と彼らは言っていません。正義を振るう瞬間に、自分の中で立ち止まれ、と言っています

「これは正義だ」── そう確信した瞬間に、もう一度問い直してください。「私の正義は、誰を切ろうとしているのか。その切り方は、本当に必要なのか」。問いの瞬間が、刃の角度を変えます。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 正義は本質的に二面性を持つ ── 守るための道具にもなれば、傷つけるための刃にもなる。同じ言葉が、振るう側の内面によって、まったく違う作用をする。
  2. 正義は単一の原理に還元できない (Sandel)。功利・自由・徳・ケア ── 複数の正義が共存する。"正義は一つ" と信じる人は、他の正義に気づかないだけ。
  3. 悪は "向こう側" にあるのではなく、自分の心の中にもある (Solzhenitsyn)。同じ線が自分の中にもあることを認識した正義だけが、独善にならず、本当に届く正義になる。
出典・参考文献
  1. Nietzsche, Friedrich. Jenseits von Gut und Böse. Leipzig: C. G. Naumann, 1886. (邦訳: 木場深定訳『善悪の彼岸』岩波文庫, 1970)
  2. Rawls, John. A Theory of Justice. Cambridge: Harvard University Press, 1971. (邦訳: 川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論 改訂版』紀伊國屋書店, 2010)
  3. Sandel, Michael J. Justice: What's the Right Thing to Do? New York: Farrar, Straus and Giroux, 2009. (邦訳: 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう』早川書房, 2010)
  4. Gilligan, Carol. In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development. Cambridge: Harvard University Press, 1982. (邦訳: 岩男寿美子監訳『もうひとつの声で』風行社, 2022)
  5. Arendt, Hannah. Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil. New York: Viking Press, 1963. (邦訳: 大久保和郎訳『エルサレムのアイヒマン』みすず書房, 1969)
  6. 親鸞『歎異抄』(日本, 唯円編, 13 世紀末). 第二条・第三条. (校注: 梅原猛訳・解説『歎異抄』講談社学術文庫, 2000)
  7. 老子『道徳経 (老子)』(中国, 前 4 世紀頃). 第五章「天地不仁」. (邦訳: 蜂屋邦夫訳注『老子』岩波文庫, 2008)
  8. Solzhenitsyn, Aleksandr. Arkhipelag GULAG. Paris: YMCA-Press, 1973. (邦訳: 木村浩訳『収容所群島』ブッキング, 2006)