01新薬 1 件 22 億ドル ── 製薬 R&D は 70 年間効率を落とし続けた
製薬産業の研究開発には、他の産業にはない長期傾向がある。1950 年代、インフレ調整済みの R&D 投資 10 億ドルあたり 40〜50 件の新薬が承認されていた。2010 年代にはその数が 1 件を下回った。投資額あたりの承認数が 9 年ごとに半減するこの傾向を、Jack Scannell らは 2012 年に「イルームの法則」と名付けた。ムーアの法則の逆(Eroom は Moore の逆さ読み)である。
Deloitte が 2025 年 3 月に公表した年次報告では、大手 20 社の新薬 1 件あたりの開発費用は 2024 年に 22 億ドルと推計された。R&D の内部収益率は 5.9% に改善したが、これは GLP-1 受容体作動薬の売上拡大が押し上げた結果であり、GLP-1 を除くと 3.8% にとどまる。製薬のビジネスモデルは、少数の大型製品で多数の失敗を補填する構造のまま変わっていない。
02費用の 7 割は臨床試験に集中している
新薬開発の費用構造を分解すると、前臨床(標的探索・化合物最適化・毒性試験)が全体の 2〜3 割、臨床試験(第 I 相〜第 III 相)が 5〜7 割、申請・上市後が残りを占める。イルームの法則の原因として Scannell が挙げたのは四つある。規制のハードルの上昇、「摘みやすい果実」の枯渇、過去の成功薬との比較が求められる「より良い薬」の壁、そして基礎研究の精度の低さだ。
この構造は、AI の効果を評価する上で決定的に重要になる。AI が前臨床を大幅に短縮しても、費用の大部分を占める臨床試験が変わらなければ、開発費用全体への影響は限定的だからだ。
03AI が効くのは前臨床と第 I 相に限られる
AI 創薬の成果は、2026 年時点で前臨床の期間短縮に集中している。従来 4〜6 年かかった標的探索から前臨床候補の選定までを、AI は 13〜18 か月に圧縮した実例が複数報告されている。ある AI 創薬企業は、AI が設計した前臨床候補が臨床入り前に脱落した例がゼロだと報告している。
BCG が 2024 年に発表した分析では、AI で発見された分子の第 I 相成功率は 80〜90% と推定され、業界平均の約 52% を大きく上回った。分子の安全性設計と ADMET 予測で AI が従来手法を上回っていることを示唆する。
しかし第 II 相になると状況は変わる。AI 発見分子の第 II 相成功率は約 40% で、従来の 37% と統計的に区別できない。第 II 相は「この薬は本当に効くのか」を問う試験であり、AI が得意な分子設計の精度ではなく、疾患の生物学的複雑さが成否を決める。AI が生物学の壁を迂回できない以上、第 II 相以降の費用と期間は当面縮まらない。
| 開発段階 | AI の寄与 | 成功率(AI) | 成功率(従来) |
|---|---|---|---|
| 前臨床(標的探索〜候補選定) | 期間を 4〜6 年→13〜18 か月に短縮 | 報告例で脱落ゼロ | ─ |
| 第 I 相(安全性) | ADMET 予測の精度向上 | 80〜90% | 約 52% |
| 第 II 相(有効性) | 現時点で有意な差なし | 約 40% | 約 37% |
| 第 III 相(大規模検証) | 2026 年に初の結果待ち | 未確定 | 約 50〜60% |
04AI 創薬パイプラインは急拡大したが承認薬はまだない
AI で設計された薬剤の臨床試験プログラムは、2023 年末の約 24 件から 2026 年初頭に 173 件超へ急増した。だが 2026 年 9 月時点で、AI が発見した薬剤で規制当局の承認を受けたものはない。最も進んだプログラムが第 III 相に入った段階であり、2026 年後半から 2027 年にかけて最初の結果が出る見通しだ。
この事実は二つのことを意味する。一つは、AI 創薬は「研究の効率化」から「承認という実績」へ移行する過渡期にあること。もう一つは、承認が出るまで、AI が製薬の費用構造を変えたかどうかを定量的に判定できないことだ。
05臨床試験の費用を押し上げる三つの構造要因
臨床試験の費用が下がりにくい理由は、AI の能力とは別の構造に根ざしている。
規制が求めるエビデンスの水準
安全性への社会的要求が高まり、FDA や EMA が求める臨床データの規模と質は年々拡大している。1960 年代の臨床試験と比較して、現在の第 III 相試験の平均被験者数は数倍に増えた。
既存薬との比較試験の義務化
多くの疾患領域で有効な既存薬がすでに存在し、新薬はプラセボではなく既存治療との優越性または非劣性を示す必要がある。この「より良い薬の壁」が試験の規模と費用を押し上げる。
被験者の募集と維持の困難
疾患が細分化されるほど、適格患者は少なくなる。希少疾患やバイオマーカーで層別化された試験では、世界中から被験者を集める必要があり、試験期間と費用が膨らむ。
試験運営の実費
多施設・多国籍の臨床試験では、施設ごとの規制対応、現地モニタリング、データ標準化にかかる費用が大きい。分散型臨床試験(DCT)が費用削減の候補だが、普及は始まったばかりだ。
06薬価制度が R&D 費用の回収構造を変え始めた
製薬のビジネスモデルは、高い薬価で R&D 投資を回収する仕組みの上に成り立つ。米国では 2022 年のインフレ抑制法(IRA)により、連邦政府が初めてメディケア対象薬の価格交渉権を獲得した。2024 年 8 月に公表された最初の 10 品目の交渉価格は、表示価格から 38〜79% の割引となり、2026 年の発効でメディケアに約 60 億ドル、患者に約 15 億ドルの節減をもたらすと推計されている。
米国外では、英国の NICE や日本の中央社会保険医療協議会(中医協)が費用対効果評価を薬価算定に組み込んでいる。ICER(米国)は 2025 年 10 月、新薬の年間予算影響の閾値を 8 億 8,000 万ドルから 8 億 2,100 万ドルに引き下げた。こうした動きは、「高い薬価で R&D 投資を回収する」という従来のモデルに圧力をかけている。
AI が前臨床費用を下げたとしても、薬価がそれに連動して下がれば、費用削減の利益は企業に残らない。薬価制度と R&D 生産性の関係は、製薬のビジネスモデルの将来を左右する論点だ。
07AI が変えるのは費用構造ではなく、失敗の早期発見である
ここまでの分析を踏まえると、AI が製薬のビジネスモデルに与える影響は、「費用を大幅に下げる」という物語よりも、「失敗する候補を早期に落とし、臨床試験に進む分子の質を上げる」という形で現れる可能性が高い。前臨床で AI が達成した成功率の向上と期間の短縮は、このメカニズムの表れだ。
実務にとっての意味は三つある。第一に、AI への投資は前臨床と第 I 相のパイプライン強化に集中する合理性がある。第二に、臨床試験の費用は規制構造・疾患の複雑さ・患者募集の困難さに規定されており、AI だけでは縮まない。第三に、薬価制度の変化は AI による費用削減の恩恵が企業に残るか、患者・保険者に移転するかを決定する。
製薬企業にとって問われているのは、AI を「どの工程に使うか」の選択であり、その選択を薬価環境の変化と合わせて行う戦略設計だ。
- イルームの法則が示す R&D 生産性の低下は 1950 年代から続き、新薬 1 件あたりの開発費用は 22 億ドルに達した。AI は前臨床の期間を 4〜6 年から 13〜18 か月に短縮し、第 I 相成功率を約 52% から 80〜90% に押し上げた。しかし費用の大半を占める第 II 相以降の成功率は従来と統計的に区別できず、2026 年 9 月時点で AI 発見薬の承認はまだない。
- 臨床試験の費用を押し上げているのは、規制が求めるエビデンス水準の上昇、既存薬との比較義務、被験者募集の困難という構造要因であり、AI だけでは解決できない。前臨床の効率化が開発費用全体に与える影響は、臨床試験の構造が変わらない限り限定的にとどまる。
- 米国のインフレ抑制法による薬価交渉や各国の費用対効果評価の強化は、「高い薬価で R&D 投資を回収する」ビジネスモデルに圧力をかけている。AI が前臨床費用を下げても、薬価が連動して下がれば企業には利益が残らず、AI の経済的恩恵の帰属先は薬価制度が決める。
製薬の研究開発は、70 年かけて効率を落としてきた。AI はその傾向に前臨床で初めて逆方向の力を加えた。だが新薬開発の費用構造は、前臨床だけでは決まらない。費用の大部分は臨床試験にあり、臨床試験の規模と期間は規制・疾患の複雑さ・社会的要求に規定されている。さらに、開発費用の回収を支えてきた薬価の仕組み自体が、米国を含む各国で変化し始めた。AI は製薬の費用を下げる道具ではなく、失敗を早く見つける道具として機能しつつある。その価値が企業の利益として残るか、薬価引き下げを通じて患者と保険者に移転するかは、技術ではなく制度が決める。
- Scannell, J.W. et al. Diagnosing the decline in pharmaceutical R&D efficiency. Nature Reviews Drug Discovery, 2012. https://lukemuehlhauser.com/wp-content/uploads/Scannell-Diagnosing-hte-decline-in-pharmaceutical-RD-efficiency.pdf
- Deloitte. Measuring the return from pharmaceutical innovation 2024. Deloitte Centre for Health Solutions, 2025. https://www.deloitte.com/ch/en/Industries/life-sciences-health-care/research/measuring-return-from-pharmaceutical-innovation.html
- FDA. Novel Drug Approvals for 2024. U.S. Food and Drug Administration, 2024. https://www.fda.gov/drugs/novel-drug-approvals-fda/novel-drug-approvals-2024
- BCG. How successful are AI-discovered drugs in clinical trials? A first analysis and emerging lessons. 2024. https://www.researchgate.net/publication/380223979_How_successful_are_AI-discovered_drugs_in_clinical_trials_A_first_analysis_and_emerging_lessons
- IntuitionLabs. AI-Discovered Drugs in Clinical Trials 2026: Full Pipeline. 2026. https://intuitionlabs.ai/articles/ai-discovered-drugs-clinical-trials-2026
- CMS. Medicare Drug Price Negotiation Program: Negotiated Prices for Initial Price Applicability Year 2026. 2024. https://medicareadvocacy.org/medicare-announces-results-of-first-round-of-historic-drug-price-negotiations-effective-2026/
- ICER. 2025 Launch Price and Access Report. Institute for Clinical and Economic Review, 2025. https://icer.org/wp-content/uploads/2025/10/ICER_2025_Launch-Price-and-Access-Final-Report_For-Publication.pdf
- OECD. Eroom's Law and the decline in the productivity of biopharmaceutical R&D. Artificial Intelligence in Science, 2023. https://www.oecd.org/en/publications/artificial-intelligence-in-science_a8d820bd-en/full-report/eroom-s-law-and-the-decline-in-the-productivity-of-biopharmaceutical-r-d_f42df75c.html