かつて自分は、ルールという正義に取り憑かれた。白か黒か。通るか通らないか。その二項対立の中に閉じこもり、グレーの地形を見ることができなかった。あの病を抜け出すのに、数年かかった。そして今、経営者になって三年目の秋、自分の内側に同じ匂いを嗅いだ。語彙は変わっていた。「患者のため」が「株主のため」に、「規則」が「効率」に、「違反」が「非合理」に。しかし構造は同じだった。白か黒か。正しい経営か、そうでないか。第6回は、衣を替えて戻ってきた正義病の解剖である。
経営語の浸透 ── 気づかないうちに
経営者になりたての頃、自分は意識的に「経営の言葉」を学ぼうとした。P&Lを読む、KPIを設定する、資本効率を問う。それらは道具であり、習慣だった。新しい言語を覚えるように、少しずつ自分の思考回路に組み込んでいった。
しかし道具はいつのまにか目的になる。経営語を使いこなすことが、「優れた経営者」の証明になっていた。会議でROIを問い、採算性の低い案件を切り、「選択と集中」という言葉で決断を包む。その所作に、自分でも気づかないうちに快感が生まれていた。「正しい経営をしている」という手触り。それはかつて「違反を止めた」ときの感覚に、驚くほど似ていた。
ラッセル・アコフは、部分の最適化が全体の劣化を招くという「劣化の論理」(suboptimization)を繰り返し警告した。彼の指摘の核心は、合理的に見える局所判断の積み重ねが、全体として非合理な結果を生むという逆説にある。自分が「経営の正論」として振るう言葉の多くは、この局所性に感染していた。効率、収益性、集中 ── それぞれは正しい。しかし全体の中でどう機能するかを問わないまま振り回すと、道具は凶器になる。
「正しい経営」という白黒 ── 新しい二項対立
part1の頃、自分が陥っていたのは「規則に照らして正か否か」という二項対立だった。しかし経営者になった自分が陥っていた二項対立の構造は、それと瓜二つだった。「ビジネスとして成立するか、しないか」「経営判断として正しいか、甘いか」「株主に説明できるか、できないか」。
ミルトン・フリードマンが1970年に書いた論考は、株主価値の最大化こそが企業の社会的責任であるという命題を世界に広めた。その命題は経営者教育の中で単純化され、「株主のため」という四文字が、複雑な判断を封じ込める錦の御旗になった。問題はフリードマンの命題そのものより、それが白か黒かの言語として機能するようになったことにある。株主価値に貢献するか否か。この問いに「グレー」の回答を出す余地は、論理の構造上、著しく狭くなる。
一方、エドワード・フリーマンのステークホルダー理論が示すように、企業の目的を株主一者に収斂させる見方は、複数の利害関係者を同時に考慮するという現実の複雑性を削ぎ落とした簡略化である。しかし「複数のステークホルダーを考慮する」という立場は、「誰のために何を守るか」という問いに即答できない。その即答できなさが、白黒思考には「弱さ」や「曖昧さ」に見える。だから白黒に戻りたくなる。
moral licensing の罠 ── 寛解が作った盲点
自分には一つの過信があった。「かつて正義病から回復した」という事実が、今の自分に対する一種の免疫になっていると思い込んでいたのだ。
社会心理学者のブノワ・モナンとデール・ミラーは、過去に道徳的に「良いこと」をしたという記憶が、その後の行動の倫理的自己検証を緩める現象をmoral licensing(道徳的免許付与)と呼んだ。善行の実績が、次の判断における自己批判を抑制する。「自分は良い人間だ」という確信が、新しい状況での盲点を作る。
自分の場合、それは「正義病から回復した自分」という自己物語だった。あの病を知っている。白黒思考の罠を知っている。グレーを見る目を持っている。だから今の自分は大丈夫だ ── そのナラティブが、経営の言語に染まっていく過程への自己監視を、静かに緩めていた。マックス・バゼルマンとアン・テンブランセルが「Blind Spots」で描いたbounded ethicality(有界倫理性)の典型だ。人は自分が倫理的に行動していると信じながら、構造的に非倫理的な判断を下し続けることができる。問題は悪意ではなく、盲点の形成にある。
三つの症状 ── 再発のサイン
後になって振り返ると、その秋の自分には三つの症状が出ていた。それぞれは些細に見えた。しかし三つ揃うと、かつての病の輪郭が浮かび上がった。
「だから結論は明らかだ」という口癖
複雑な案件の議論が一時間続いた後、「つまりビジネスとして成立しないということだ」と自分が締めくくる場面が増えた。部下はまだ何かを言いたそうにしていた。しかし「結論は出た」という空気が、それを封じた。part1で自分が「やはり通せない」と言い切っていたときと、声の調子が同じだった。
反論に「感情論」のラベルを貼る
「患者さんのことを考えると」「現場が疲弊している」という声を、定性的・感情的として処理するようになった。数字で示せないものは議論の外に置く。その線引きが、自分の中でいつの間にか自明になっていた。かつて「グレーは逃げだ」と感じていた頃の感覚と、構造は同じだった。
「自分が一番全体を見ている」という確信
経営者は全体を見なければならない。それは本当のことだ。しかしその命題はいつのまにか「自分は全体を見ている、部下は局所しか見ていない」という非対称な確信に変化していた。指摘を「視野が狭い」と分類する癖は、かつて「現場を分かっていない人間の意見」として審査対象者の反論を却下していたときと、同じ論法だった。
審査員の正義 vs 経営者の正義 ── 形が違うだけ
part1の正義病と、今経験しているものを並べてみると、語彙だけが替わっていることが分かる。
| 観点 | 審査員時代の正義病 | 経営者時代の新しい正義病 |
|---|---|---|
| 正義の言語 | 「規則に違反している」「通せない」 | 「採算が取れない」「株主に説明できない」 |
| 敵の定義 | 規則を無視しようとするマーケティング・営業 | 「感情論」を持ち込む現場・中間管理職 |
| 白黒の軸 | 規則への適合 / 違反 | 経営合理性 / 非合理 |
| 快感の源泉 | 「違反を止めた」達成感 | 「正しい経営判断をした」自己確認 |
| グレーの処理 | 「グレーは甘え」として却下 | 「定性的・感情的」として議論の外へ |
| メタ認知の状態 | 「自分の判断が正しい」という確信 | 「自分が一番全体を見ている」という確信 |
並べれば一目瞭然だ。病は再発していた。ただしスーツが変わっていた。
コストカットという義憤 ── 再発の核心
十月のある会議で、地方の拠点を一つ閉鎖する案が上程された。採算は三期連続で悪化しており、数字の論理では「閉める」が明確だった。自分は躊躇なく決断した。会議後、その拠点の担当者と長年関係を築いてきた中間管理職が、廊下で声をかけてきた。「あそこには、他の拠点では対応できない地域の患者さんとの関係があります」。
自分は「分かった、記録しておく」と答えた。しかしその夜、自分の内部で何かが動いた。「記録しておく」は、「聞いた」ことにして「聞かなかった」ことにする言葉だった。かつて審査員だった頃、自分に反論する同僚に「確認します」と言いながら、実質的に封じていた頃と、まったく同じ語法だった。
義憤は、動機が正しいと、指摘への耳を閉じる。審査員だった頃も、経営者の今も、その構造は変わらなかった。
閉鎖の決定は数字として「正しかった」。しかし決定に至るプロセスの中で、自分は反論を「感情論」として処理し、全体性の主張を「局所視点」として棄却し、そして最後に「だから結論は明らかだ」と宣言した。これはかつての自分のやり方だった。言語だけが経営語に変わっていたが、思考の形はまったく同じだった。
かすかな違和感 ── 再発への気づきの入口
その夜、自分は珍しく眠れなかった。閉鎖の決定を後悔していたわけではなかった。何かが引っかかっていた。翌朝、かつて正義病の最中に書き続けていたノートを引っ張り出した。「自分が正しいと思うとき、自分は何を見ていないか」という問いを、当時の自分が繰り返し書いていた。
経営の正論には、それ自体の論理があり、それ自体の倫理観がある。「株主のため」「効率のため」「持続可能な経営のため」。これらは虚偽ではない。問題は、それらが反論を飲み込む容量を持ってしまうことにある。正論は、反論を「感情」「短期思考」「経営を理解していない意見」に分類することで、自らへの批判を無効化できる。かつて「規則という正論」がそうであったように。
自分が感じた違和感の正体は、そこにあった。判断そのものへの疑念ではなく、判断に至るプロセスへの疑念。自分は反論を聞いたか。グレーを見たか。それとも白黒の言語で早々に封じたか。答えはすでに分かっていた。
第5回で部下の正義病を見抜いた自分が、今度は自分自身の中に同じものを見つけた。バゼルマンとテンブランセルの言葉を借りれば、これが bounded ethicality の恐ろしさだ。人は倫理的に行動しているつもりのまま、倫理的に重大な何かを見落とし続けられる。見落としを構造的に可能にしているのは、「自分は分かっている」という確信そのものだ。
正義病 II ── 全 10 回の地図
- 第 1 回: 昇進 ── 裁く側から、背負う側へ ── 裁く側から、全体を背負う側へ。見えなかった「全体」に自分がなる
- 第 2 回: 全体最適という重荷 ──「止める」では済まない ── 「止める」では済まない。局所最適の習慣が全体責任と衝突する
- 第 3 回: 数字の論理 ── P&L という新しい言語 ── P&L という新しい言語。善意と受託者責任のずれを上から見る
- 第 4 回: トレードオフの孤独 ── 白黒で裁けない決断 ── 経営判断はすべてグレー。正解なき選択の孤独
- 第 5 回: 部下の正義病 ── かつての自分を見る ── 白黒思考に囚われた部下に、かつての自分を見る
- 第 6 回 (本回): 新しい正義病 ── 経営の正論という罠 ── 「効率」「株主のため」という別の白黒。衣を替えた正義病
- 第 7 回: 権力とメタ認知 ── 誰も止めてくれない ── 経営者には指摘者がいない。権力が自己監視を蝕む
- 第 8 回: 守るべきものは何か ── ルールの背後の目的、再び ── ルールを支える側として、守るべきものを問い直す
- 第 9 回: 架橋する ── 審査と経営の通訳になる ── 審査の規律と全体最適を翻訳し、両者を架橋する
- 第 10 回 (最終回): 経営者の日々是好日 ── 完治なき自己監視 ── 権力の座にも正義病はある。気づき続けられるかが組織の運命を分ける
正義病は完治しない、とpart1の最終回で自分は書いた。今その意味が、以前とは別の重さで体に染みる。寛解は免疫ではない。「あの病を知っている」という自己物語が、新しい感染への警戒を緩める。moral licensingとはそういう仕掛けだ。善行の記憶が、新しい盲点を育てる土壌になる。
経営の正論 ── 効率、株主価値、選択と集中 ── はそれ自体が間違っているわけではない。問題は、それらが白黒の言語として機能し始めたとき、グレーを見る目が閉じていくことにある。自分が廊下で「記録しておく」と言ったあの瞬間、閉じたのはグレーを見る目だった。語彙は変わっていた。しかし自分がやっていたことは、十年前の審査台で「差し戻し」を宣言していた頃と、構造としてまったく同じだった。
気づいた、という事実だけが、今の自分に残っている。それを次にどう生かすかは、これからの問いだ。再発を知ることが、第7回以降の出発点になる。
- かつて正義病から回復したという自己物語は、moral licensing(道徳的免許付与)として機能し、新しい形の同じ病への自己監視を静かに緩める。善行の記憶は盲点の温床になりうる。
- 「効率」「株主のため」という経営語は、「規則」「違反」という審査語と同じ白黒の構造を内包できる。語彙が変わっても思考の形が変わらなければ、正義病の再発にすぎない。
- Bazerman & Tenbrunsel の bounded ethicality が示す通り、人は倫理的に行動しているという確信を持ちながら、構造的に倫理的な何かを見落とし続けられる。問題は悪意ではなく、「自分は分かっている」という確信が作る盲点にある。
- Monin, B., & Miller, D. T. "Moral Credentials and the Expression of Prejudice." Journal of Personality and Social Psychology, 81(1), 33–43, 2001. (道徳的免許付与の基礎研究)
- Bazerman, M. H., & Tenbrunsel, A. E. Blind Spots: Why We Fail to Do What's Right and What to Do about It. Princeton University Press, 2011. (bounded ethicality ── なぜ善意ある人が倫理的盲点を持つか)
- Friedman, M. "The Social Responsibility of Business Is to Increase Its Profits." New York Times Magazine, September 13, 1970. (株主価値最大化の命題とその後の単純化)
- Ackoff, R. L. Re-Creating the Corporation: A Design of Organizations for the 21st Century. Oxford University Press, 1999. (局所最適化と全体劣化 ── suboptimization の構造)
- Freeman, R. E. Strategic Management: A Stakeholder Approach. Cambridge University Press, 1984. (ステークホルダー理論 ── 株主一者への収斂への対抗命題)