資材審査員にとって、"正しさ" は仕事の根幹です。薬機法、作成要領、エビデンス、リスク表記 ── どれも「正しいかどうか」を判定するための基準です。しかし、長くこの仕事を続けるうちに、私たちはしばしばある瞬間に立ち止まります。「正しさ" は手にした。しかし、伝わらなかった」 という瞬間です。本シリーズの出発点として、まずこの問いに向き合います。正しさの追求には、どこまで意味があるのか。William James、Pyrrho、孔子、Hume、Mill、Foucault、Rosenberg、Wittgenstein ── 八つの伝統が、別々の言葉で、同じ問いに答えてきました。
01「正しい審査」という呪縛
「私は正しい」「私の指摘は妥当だ」── 資材審査の場面で、こう感じる瞬間はしばしばあります。しかも、その瞬間に感じる "正しさ" は、たいていの場合、本当に正しい。法令上、規制上、エビデンス上、その判断は通っている。それでも、相手に届かない。むしろ相手の防衛が強くなり、関係がきしむ。なぜでしょうか。
本シリーズが扱う仮説は、こうです。「正しさ」は仕事の必要条件であって、十分条件ではない。正しさを土台に据えながら、その上に 伝わる という別の質を積み上げなければ、コミュニケーションは成立しません。本回は、正しさという土台そのものを、まず再点検します。"正しさ" は、私たちが信じているほど、自明で堅固なものだろうか、という問いから。
02William James ── 正しさは状況的である
米国のプラグマティズム哲学者 ウィリアム・ジェイムズ (1842–1910) は、『プラグマティズム』(1907) のなかで、真理を 固定的な性質ではなく、文脈における働き として再定義しました。
「真理とは、私たちの観念が経験のなかでうまく働く力のことである。真理は静的な性質ではなく、観念が世界と出会うときに生じる関係である」── ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』(1907) より趣旨
ジェイムズが指摘するのは、同じ命題でも、文脈が違えば真理としての意味が変わる という事実です。「この記述は誤解を招く」── これは抽象的には常に正しい。しかし、どんな場面で、誰に対して、どんなタイミングで言うかによって、その正しさが 機能する 強さが大きく変わります。資材審査の現場で、同じ正しい指摘が、ある状況では深い学びを生み、別の状況では関係を壊す。違いを生むのは、命題そのものではなく、命題と文脈の関係です。
03Pyrrho と "判断停止" ── 正しさの主張を、一旦保留する賢慮
古代ギリシャの哲学者 ピュロン (Pyrrho of Elis, 前 360 頃 ─ 前 270 頃) は、徹底した懐疑主義の祖として知られています。彼が唱えた中核概念が エポケー (epoché、判断停止) です。あらゆる命題について、ただちに「正しい」と判定する前に、いったん判断を保留する ── これがピュロン主義の出発点でした。
「あらゆる事柄について、これと相対する事柄を見いだすことができる。したがって判断を保留 (epoché) し、心を平静 (ataraxia) に保つことが賢慮である」── セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』(2 世紀) より趣旨
エポケーは、不可知論ではありません。「正しさは存在しない」と主張するのではなく、「正しさを急ぐな」 と勧めるものです。資材審査の現場でこれを応用すると、興味深いことが起きます。一見明白に "誤り" に見える資材も、いったん判断を保留してみると、別の解釈の可能性、別の文脈、別の意図が浮かび上がることがある。判断を急ぐ習慣を、一拍だけ遅らせる。それだけで、コミュニケーションの質が変わります。
04孔子「和而不同」── 違いを含んだ調和
東洋の系譜から、もっとも重要な命題のひとつを引きます。『論語』子路篇に伝わる 孔子 (前 551–前 479) の言葉です。
子曰、君子和而不同、小人同而不和。
── 子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(『論語』子路篇)
孔子のこの命題は、しばしば誤読されてきました。「君子は和を重んじる」と読んで終わりにすると、本質を逃します。重要なのは 「和」と「同」の区別 です。「和」は違いを含んだ調和、「同」は違いを消した一致。違いを抹殺する一致(同)を求めるのは小人。違いを尊重したまま調和を求めるのが君子。
資材審査の現場で言えば、相手と「同」じ判断にすることを目的にすると、しばしば対立か迎合に至ります。「和」── 違いを認めたまま、共通の目的(患者の利益、規制の遵守)に向かって調和を作る ── を目指すと、対話の質が変わります。正しさの追求とは、相手を自分と "同" にすることではなく、違いを含んだ "和" に至ること ── これが孔子が指す方向です。
05Hume の is/ought ギャップ ── 事実から正しさは導けない
スコットランドの哲学者 デイヴィッド・ヒューム (1711–1776) は、『人間本性論』(1739) のなかで、事実 (is) から規範 (ought) を導出できない という、現代哲学の核心命題のひとつを提示しました。
「私が今まで遭遇したあらゆる道徳論において、著者はある時点まで、神の存在や人間の事柄について通常の論証を進める。ところが急にすべての命題が "is" から "ought" に切り替わっていることに気づく ── この切り替えは、決して正当化されていない」── ヒューム『人間本性論』(1739) より趣旨
ヒュームの含意を、資材審査に応用してみましょう。「この記述は医薬品医療機器等法の条文に反する」(事実) から、「ゆえに修正すべきだ」(規範) への移行は、論理的には自明ではありません。条文(事実)の解釈、修正(規範)の妥当性、修正方法の選択 ── すべてに、人間の判断と価値が介在します。"正しい" という言葉は、しばしば事実と規範の境目を曖昧にしたまま使われる。これに気づくと、自分の "正しさ" の主張が、どこまで事実に支えられ、どこから規範の選択に踏み込んでいるかが、見えやすくなります。
06Mill『自由論』── 異論への寛容が、正しさを鍛える
英国の哲学者 ジョン・スチュアート・ミル (1806–1873) は、『自由論 (On Liberty)』(1859) のなかで、異論を抑圧することの代償を、明晰に論じました。
「あらゆる議論の沈黙化は、人類からの権利の略奪である。沈黙化された意見が真であれば、人類は真理に到達する機会を失う。誤っていれば、誤りとの衝突によって真理が より明晰に立ち上がる機会を失う」── J.S.ミル『自由論』(1859) 第 2 章より趣旨
ミルの命題が示すのは、正しさは異論との対比のなかでしか、その輪郭を保てない という事実です。「私は正しい、だから相手の意見は聞かなくていい」── この姿勢は、一見強固に見えて、実は自分の正しさを最も貧しくする道です。逆に、相手の意見を真剣に聞いて、自分の判断を試した上でなお正しいと判断したとき、その正しさは、はじめて強固なものになります。資材審査の現場で、相手の反論を「言い訳」と片付ける癖は、自分の正しさを鍛え損なう癖でもあります。
07Foucault ── 正しさは、権力と無関係ではない
フランスの哲学者 ミシェル・フーコー (1926–1984) は、『監獄の誕生』(1975) や『知の考古学』(1969) を通じて、知と権力は分離不可能 という命題を展開しました。
「真理は権力の外部にあるのではない。各社会には、その "真理の体制" がある ── どの言説を真理として受け入れ、どの言説を排除するか、誰が真理を語る権限を持つか、を決定する仕組みである」── フーコー『知識・権力・身体』講演(1976) より趣旨
フーコーの命題は、しばしば挑発的に響きます。「正しさは権力の道具にすぎない」とまで読むと、ニヒリズムに陥ります。彼が指摘するのは、もう少し穏やかな事実です。"何を正しいとするか" の判定には、必ず社会的な構造と権力関係が織り込まれている。資材審査員の "正しさ" も、業界の慣行、規制当局の判断、社内の力学、専門家の認定 ── これらの構造の上に成り立っています。それを自覚することは、自分の正しさを否定することではなく、自分の正しさが立っている地面を意識する ことです。地面を意識した正しさは、独善になりにくい。
08Rosenberg NVC ── 共感は、正しさより先に来る
米国の心理学者 マーシャル・B・ローゼンバーグ (1934–2015) は、1960 年代から 非暴力コミュニケーション (Nonviolent Communication, NVC) を開発しました。彼が長年の対人紛争調停の経験から到達したのは、正しさの主張が、ほぼ常にコミュニケーションを閉ざす という臨床的事実でした。
「相手と何かを共有したいなら、まず相手の感情とニーズに耳を傾ける。"あなたは間違っている" は、いかに正しくても、相手の心を閉ざす言葉である。心が閉ざされたあとに発される正しさは、誰にも届かない」── マーシャル・B・ローゼンバーグ『非暴力コミュニケーション』(1999) より趣旨
NVC の中核は、相手の 観察・感情・ニーズ・リクエスト の四層を、評価や判断を挟まずに把握することです。資材審査員にとって、これは難しい挑戦になります。私たちは "判断" することが仕事だからです。しかし、Rosenberg が指すのは、判断する前に、まず共感的に把握する という順序です。共感を経由した正しさは、相手に届く正しさになる。共感を飛ばした正しさは、いかに正しくても、空中に消える。正しさの追求の前に、共感の作業がある ── これが NVC の核心命題です。
09Wittgenstein の沈黙 ── 語れない領域の認識
オーストリアの哲学者 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (1889–1951) は、『論理哲学論考 (Tractatus)』(1921) の有名な最終命題で、こう書きました。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
── Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. (『論理哲学論考』命題 7)
ヴィトゲンシュタインが指すのは、神秘主義ではありません。言語で精密に語れる領域には限界があり、その限界の外を無理に言語化しようとすると、正しさそのものが歪む という認識論的命題です。資材審査の現場でも、すべての判断が言葉で完全に正当化できるわけではありません。「これはなぜ問題か」を言語化しようとするほど、本当に大切な何かが言葉から漏れる瞬間があります。その瞬間に、過剰に言葉を重ねるのではなく、沈黙を選ぶ ── これも一つの正しさの作法です。本シリーズの最終回(第 10 回)で、この主題に戻ります。
10「正しさ」を超えた 4 つの作法
八つの伝統が指し示した同じ場所を、日々の実践に落とすための 4 つの作法を置きます。
正しさを急がない (Pyrrho)
判断を一拍遅らせる。"明らかな誤り" にも、別の解釈の可能性がある。エポケー(判断停止)を、一秒だけ意識する。
"和" を目指す、"同" を求めない (孔子)
相手と同じ判断にすることが目的ではない。違いを含んだ調和を作る。正しさは、違いを抹殺するためではなく、違いの中で共通の目的に向かうための道具。
共感が先、正しさが後 (Rosenberg)
相手の感情とニーズを把握してから、判断を伝える。共感を経由した正しさは届く。経由しない正しさは空中に消える。
自分の正しさが立っている地面を意識する (Foucault, Hume)
"正しさ" には、必ず社会構造と価値選択が織り込まれている。自分の判断のどこが事実で、どこが規範で、どこが構造的なものかを、ときどき自問する。
正しさの追求には、確かに意味があります。それなしに資材審査の仕事は成立しません。しかし、正しさの追求 だけ では、コミュニケーションは成立しません。James、Pyrrho、孔子、Hume、Mill、Foucault、Rosenberg、Wittgenstein ── 八つの伝統が、別々の言葉で同じ場所を指していました。正しさは、必要条件であって、十分条件ではない。正しさを土台に置きながら、その上に "伝わる" という別の質を積み上げる。それが、本シリーズ全体が追究する作法です。
「私は正しい」── そう感じたとき、もう一度問い直してください。「私は正しい。では、どう伝えるか」。問いの後半が、コミュニケーションの本当の入口です。
- 正しさは必要条件であって十分条件ではない。"正しい" 判断が、文脈・タイミング・共感を経由せずに発されるとき、相手には届かない。
- 孔子の "和而不同" ── 目的は相手を自分と同じ判断にすることではなく、違いを含んだ調和を作ること。違いを尊重する正しさは、強くなる。
- Rosenberg の NVC ── 共感は正しさより先に来る。共感を飛ばした正しさは、いかに正しくても空中に消える。共感を経由した正しさは、届く。
- James, William. Pragmatism: A New Name for Some Old Ways of Thinking. New York: Longmans, Green, 1907. (邦訳: 桝田啓三郎訳『プラグマティズム』岩波文庫, 1957)
- Sextus Empiricus. Pyrrhōneioi hypotypōseis (Outlines of Pyrrhonism). (2 世紀). (邦訳: 金山弥平・金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会, 1998)
- 孔子『論語』(中国, 前 5 世紀頃). 子路篇「和而不同」. (邦訳: 金谷治訳注『論語』岩波文庫, 1999)
- Hume, David. A Treatise of Human Nature. London: John Noon, 1739–1740. (邦訳: 木曾好能訳『人間本性論 第 1 巻』法政大学出版局, 1995)
- Mill, John Stuart. On Liberty. London: John W. Parker, 1859. (邦訳: 関口正司訳『自由論』岩波文庫, 2020)
- Foucault, Michel. L'archéologie du savoir. Paris: Gallimard, 1969. (邦訳: 慎改康之訳『知の考古学』河出文庫, 2012)
- Rosenberg, Marshall B. Nonviolent Communication: A Language of Life. Encinitas: PuddleDancer Press, 1999. (邦訳: 安納献監訳『NVC』日本経済新聞出版社, 2018)
- Wittgenstein, Ludwig. Tractatus Logico-Philosophicus. London: Kegan Paul, 1922 (執筆 1921). (邦訳: 野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫, 2003)