01PCAOB は AI を名指ししないまま監査人の責任を明文化した

2024 年 6 月 12 日、PCAOB は監査基準 AS 1105(監査証拠)と AS 2301(重要な虚偽表示リスクへの対応)の改訂を採択した。SEC は同年 8 月 20 日にこれを承認し、2025 年 12 月 15 日以降に始まる会計年度の監査から適用が始まった。改訂の対象は「電子的情報のテクノロジー支援分析」であり、AI という語は使われていない。しかし技術中立の文言であるため、AI を用いた監査手続はこの基準の射程に入る。

改訂で加わった要求は三つある。第一に、電子的情報を分析する際、その情報の信頼性を IT 全般統制と業務処理統制の検証を通じて評価すること。第二に、テクノロジー支援分析を複数の監査目的に使う場合、それぞれの目的を達成すること。第三に、特定の条件を満たす取引を抽出した場合、抽出された項目が個別にまたは集計して虚偽表示や統制の不備を示しているかを判断すること。いずれも、ツールが何を出力したかだけでなく、監査人がその出力をどう評価したかを問う構造になっている。

図 1 PCAOB AS 1105 改訂の経緯と適用
承認発効要求PCAOB 改訂採択2024 年 6 月SEC 承認2024 年 8 月適用開始2025 年 12 月〜監査人の責任明文化承認発効要求PCAOB 改訂採択2024 年 6 月SEC 承認2024 年 8 月適用開始2025 年 12 月〜監査人の責任明文化
PCAOB は AS 1105 と AS 2301 を改訂し、テクノロジー支援分析を使う監査人に情報の信頼性評価、各目的の達成、結果の判断を求めた。

02全件検査はサンプリングリスクを消すが、新しいリスクを生む

従来の監査は統計的サンプリングに依存していた。母集団から一部の取引を抽出し、その結果を全体に推定する。推定である以上、サンプルに含まれない取引に虚偽表示が隠れている可能性は排除できない。これがサンプリングリスクである。

AI による全件検査は、この構造を変える。EY は 2026 年 4 月、グローバル監査プラットフォーム EY Canvas にエージェント型 AI を組み込んだと発表した。同プラットフォームは年間 1.4 兆件の仕訳データを処理し、約 16 万件の監査業務を支える。全取引を対象に異常パターンを検出できれば、サンプリングによる見落としはなくなる。低頻度の異常、たとえば年に 1〜2 件しか発生しない不正な仕訳は、サンプルでは捕捉しにくいが、全件検査なら検出対象に入る。

ただし、全件検査はサンプリングリスクを消す代わりに、別のリスクを持ち込む。データの完全性が担保されなければ、分析の前提が崩れる。アルゴリズムの設計に偏りがあれば、特定の異常を見逃す。そして最も根本的な問題として、AI が「異常」と判定した取引の意味を解釈し、それが虚偽表示に当たるかを決めるのは人間の仕事である。

03IAASB は ISA 500 の改訂でデジタル環境の監査証拠を再定義した

IAASB は 2026 年 8 月 5 日、ISA 330(リスク対応)、ISA 500(監査証拠)、ISA 520(分析的手続)の改訂案を公開した。コメント期限は 2026 年 12 月 15 日である。改訂の目的は、デジタル環境での監査証拠の定義を見直し、情報の関連性と信頼性の評価要件を強化することにある。

ISA 500 の現行版は 2009 年に発効した。当時、監査人が扱うデータの大半は紙の証憑か、ERP から抽出した構造化データだった。17 年が経ち、被監査会社の業務システムは API 連携やクラウド上のリアルタイム処理に移行している。監査人が受け取る証拠もまた、PDF の請求書から、データベースのクエリ結果や AI が生成した分析レポートに変わった。改訂案は、こうした証拠の「出所」と「作成過程」を評価するよう監査人に求めている。

加えて、改訂案は職業的懐疑心の適用を強化した。証拠の信頼性を当然視せず、矛盾する情報がないかを積極的に探す姿勢を、基準の複数の箇所で繰り返し要求している。

図 2 三機関の AI 監査への対応比較
米国(PCAOB)国際・日本PCAOBAS 1105 改訂技術中立で AI を射程に含む2025 年 12 月適用IAASBISA 500 改訂案デジタル環境の証拠評価強化2026 年 8 月公開JICPA研究文書第 11 号AI 監査ツールの課題整理2024 年 8 月公表米国(PCAOB)国際・日本PCAOBAS 1105 改訂技術中立で AI を射程に含む2025 年 12 月適用IAASBISA 500 改訂案デジタル環境の証拠評価強化2026 年 8 月公開JICPA研究文書第 11 号AI 監査ツールの課題整理2024 年 8 月公表
PCAOB は拘束力のある基準改訂で対応し、IAASB は改訂案を策定中、JICPA は研究文書で課題整理の段階にある。対応の速度と拘束力に差がある。

04日本公認会計士協会は研究文書第 11 号で AI 監査の課題を整理した

日本公認会計士協会(JICPA)のテクノロジー委員会は 2024 年 8 月 9 日、研究文書第 11 号「監査における AI の利用に関する研究文書」を公表した。2025 年 4 月には英訳版も公開されている。文書は、大手監査法人を中心に AI を利用した監査ツールの開発と実務への導入が進んでいることを踏まえ、AI の利用方法と課題を整理している。

研究文書が整理した課題は三つに集約できる。第一に開発リスク。AI モデルの学習データの品質と偏りが監査の結論に影響する。第二に導入リスク。監査チームが AI ツールの出力を過信し、異常値の再検証を怠る可能性がある。第三に情報セキュリティリスク。被監査会社の財務データを外部の AI サービスに送信する場合、守秘義務との整合が問われる。

研究文書は拘束力のある基準ではない。しかし JICPA が公認会計士の役割と AI の関係を公式に論じた最初の文書であり、今後の監査基準改訂の方向性を示す位置づけにある。

機関文書・基準時期AI への対応
PCAOBAS 1105・AS 2301 改訂2024 年 6 月採択、2025 年 12 月適用技術中立の文言で AI を射程に含む
IAASBISA 330・500・520 改訂案2026 年 8 月公開、12 月締切デジタル環境の証拠評価を強化
JICPAテクノロジー委員会研究文書第 11 号2024 年 8 月公表AI 監査ツールの課題を整理

05職業的懐疑心は AI の出力に対しても求められる

職業的懐疑心とは、情報や証拠を批判的に評価する姿勢であり、監査基準が監査人に一貫して要求する態度である。PCAOB の AS 1015 は「疑問を持つ心」と定義し、IAASB の ISA 200 は「監査証拠の批判的評価を含む、疑問を持つ姿勢」と述べている。

AI が監査手続の一部を担う場合、この懐疑心の対象は拡がる。AI が出力した異常取引リストを無批判に受け入れれば、リストに載らなかった取引を検討しないことになる。AI が「問題なし」と判定した領域を再検証しなければ、人間が自ら判断を放棄したことと同じである。Nyenrode Business Universiteit の研究者は、自動化バイアス(automation bias)が監査人の懐疑心を弱める最大のリスクだと指摘している。機械の出力は正しいという前提で行動してしまう傾向は、航空や医療のヒューマンファクターズ研究で繰り返し報告されている現象であり、監査にも同じ力学が働く。

PCAOB の AS 1105 改訂は、テクノロジー支援分析の結果を監査証拠として用いる場合に、その分析の設計、使用された情報の信頼性、結果の評価の各段階で監査人が判断を下すよう求めている。これは「AI が出したから正しい」という態度を明示的に排除する構造である。

06製薬の会計監査では臨床試験費用と収益認識が AI の検証対象になる

製薬企業の財務報告には、AI の全件検査が特に有効な領域がある。臨床試験費用の見越計上と収益認識である。

臨床試験は複数年にわたり、CRO(受託研究機関)への支払いは進捗に応じて計上される。しかし CRO からの請求と実際の進捗は必ずしも一致せず、期末時点の見越計上額には推定が含まれる。監査人がサンプルで数件の契約を検証するだけでは、数百の試験を抱える企業全体の見越計上の妥当性を確かめるのは難しい。AI が全契約のマイルストーン達成状況と支払実績を突き合わせれば、推定の精度を網羅的に検証できる。

収益認識では、IFRS 15 の 5 ステップモデルに基づく取引価格の配分が論点になる。ライセンス契約、マイルストーン支払い、ロイヤリティの組み合わせは企業ごとに異なり、会計処理の判断が介在する。AI が過去の類似契約との一貫性を検証し、異常な配分パターンを検出することで、監査人は判断の焦点を絞ることができる。

ただし、見越計上額の妥当性を最終的に判断するのは監査人である。AI は「この契約の見越計上額が過去の傾向から外れている」と指摘できるが、その乖離が合理的な経営判断によるものか、誤りなのかを決めるのは、事業の文脈を理解した人間の仕事である。

07監査意見の署名者が AI の出力を却下できる体制を作る

監査法人 Big 4 の AI 投資は加速している。KPMG はクラウドと AI に 20 億ドルを投じ、EY は 13 万人の監査専門家が使うプラットフォームにエージェント型 AI を組み込み、Deloitte は財務機能のコスト削減率 25% を見込む AI エージェントを展開している。しかし、監査意見に署名するのは個人の公認会計士であり、法人ではない。署名者が AI の出力を理解し、必要に応じて却下できなければ、監査の品質保証は機能しない。

実務で必要な体制は三つある。第一に、AI が検出した異常のうちどれを調査対象とするかの判断基準を、監査チームが事前に設計すること。しきい値の設定をアルゴリズムに任せきりにしない。第二に、AI の出力と監査人の判断の対応関係を監査調書に記録すること。「AI が検出した異常 1,200 件のうち、50 件を重点調査し、残りは金額的重要性と過去の経験に基づき追加手続不要と判断した」という記録があれば、後から第三者が検証できる。第三に、AI ツールのバージョン変更や学習データの更新が監査の結論に与える影響を評価する手順を、品質管理体制に組み込むこと。

PCAOB の AS 1105 改訂が求めているのは、まさにこの構造である。テクノロジーが変わっても、監査証拠の十分性と適切性を評価する責任は監査人にある。

図 3 AI 監査の品質保証に必要な 4 ステップ
基盤実行責任データ信頼性の検証IT 統制の評価異常判定基準の設計出力と判断の記録監査調書に文書化署名者の最終判断却下権限の行使基盤実行責任データ信頼性の検証IT 統制の評価異常判定基準の設計出力と判断の記録監査調書に文書化署名者の最終判断却下権限の行使
AI の全件検査を監査に組み込む際、データ検証から署名者の判断まで 4 段階で人間の関与を確保する。
01

情報の信頼性評価

AI が使うデータの出所と統制を検証する

IT 全般統制と業務処理統制の検証を通じて、AI に投入されるデータの完全性と正確性を確かめる。データが信頼できなければ、AI の出力も信頼できない。

02

異常判定基準の事前設計

何を異常とみなすかを監査チームが決める

AI が検出するしきい値やパターンの定義に監査人が関与し、アルゴリズム任せにしない。業種や企業の特性に応じた判断が必要になる。

03

出力と判断の対応記録

AI の検出結果と監査人の対応を調書に残す

検出された異常の件数、調査対象の選定理由、追加手続の要否判断を文書化する。第三者による品質レビューの基盤になる。

04

ツール変更の影響評価

AI のバージョン更新が結論に影響しないか検証する

学習データやアルゴリズムの更新により、前年と異なる検出パターンが生じる場合がある。変更点を把握し、監査の一貫性を確保する。

08「AI が言ったから正しい」は監査において通用しない

AI が監査手続に組み込まれる速度は速い。EY の発表によれば、2028 年までに監査の全工程にエージェント型 AI を適用する計画である。IAASB の ISA 500 改訂案が最終化されれば、国際的な監査基準もデジタル環境に対応した形になる。全件検査は、従来の統計的サンプリングでは発見できなかった低頻度の異常を検出する能力を監査に加える。

しかし、監査基準の設定機関が一貫して強調しているのは、技術の進歩が監査人の責任を軽減しないという原則である。PCAOB の改訂は「テクノロジー支援分析の結果が十分かつ適切な監査証拠を構成するかを判断する責任は監査人にある」と明記した。JICPA の研究文書は、AI ツールの出力を過信するリスクを課題の一つに挙げた。監査意見が誤っていた場合に、「AI がそう判定した」は、会計士の懲戒審査において抗弁にならない。

全件検査の時代に監査人に求められるのは、AI を使わない判断力ではなく、AI の出力に対して懐疑心を保ち、自らの判断を記録し、署名に伴う責任を引き受ける力である。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. PCAOB は 2024 年に AS 1105・AS 2301 を改訂し、テクノロジー支援分析を用いる監査人に対して情報の信頼性評価・目的ごとの達成・結果の判断という三つの責任を明文化した。AI を名指ししていないが、技術中立の文言により AI は射程に入る。
  2. AI による全件検査はサンプリングリスクを消す一方、データの完全性、アルゴリズムの偏り、自動化バイアスという新しいリスクを監査に持ち込む。職業的懐疑心は AI の出力に対しても適用される。
  3. 監査意見に署名する公認会計士は、AI の出力を理解し、必要に応じて却下し、判断の根拠を調書に記録する責任を負う。「AI が言ったから正しい」は懲戒審査における抗弁にならない。
結語

全件検査は監査の検出力を高める。年に 1 件しか現れない異常な仕訳を見つける能力は、サンプリングにはなかった。しかし検出と判断は異なる行為である。異常を見つけることと、それが虚偽表示であるかを決めることの間には、事業の理解と職業的懐疑心が必要になる。PCAOB も IAASB も JICPA も、技術の進歩に合わせて基準の文言を更新しているが、責任の所在については一貫している。署名した人間が負う。AI が監査をどれだけ変えても、この原則は変わらない。

出典·参考文献
  1. PCAOB. PCAOB Updates Its Standards To Clarify Auditor Responsibilities When Using Technology-Assisted Analysis. June 12, 2024. https://pcaobus.org/news-events/news-releases/news-release-detail/pcaob-updates-its-standards-to-clarify-auditor-responsibilities-when-using-technology-assisted-analysis
  2. SEC. SEC Approves New and Updated PCAOB Audit Standards. August 20, 2024. https://www.sec.gov/newsroom/press-releases/2024-100
  3. IAASB. Proposed Revisions for Audit Evidence & Risk Response: ISA 330, ISA 500 & ISA 520. August 5, 2026. https://www.iaasb.org/publications/proposed-revisions-audit-evidence-risk-response-isa-330-isa-500-isa-520
  4. 日本公認会計士協会. テクノロジー委員会研究文書第11号「監査におけるAIの利用に関する研究文書」. 2024年8月9日. https://jicpa.or.jp/specialized_field/20240813dfu.html
  5. EY. EY launches enterprise-scale agentic AI to redefine the audit experience for the AI era. April 7, 2026. https://www.ey.com/en_gl/newsroom/2026/04/ey-launches-enterprise-scale-agentic-ai-to-redefine-the-audit-experience-for-the-ai-era
  6. Nyenrode Business Universiteit. AI in auditing: balancing quality, professional skepticism, and responsibility. 2025. https://www.nyenrode.nl/en/news/n/ai-auditing-quality-skepticism-responsibility
  7. Deloitte Japan. テクノロジー委員会研究文書第11号「監査におけるAIの利用に関する研究文書」の解説. 2025年1月. https://www.deloitte.com/jp/ja/services/audit-assurance/perspectives/kaikeijyoho-202501-02.html
  8. The CAQ. Auditors and AI in the New Era of Audit. 2025. https://www.thecaq.org/aia-auditors-and-ai-in-the-new-era-of-audit