前回、その審査員は初めて違反を止め、感謝された。正しさが報酬として刻まれた瞬間だった。だが報酬は習慣をつくる。習慣は視野をつくる。そして視野は、気づかないうちにルールの文字列だけを見続ける近接視点を形成していった。これが第二段階だ。「正義病」の症状は、ある日突然あらわれるのではない。正しさの快感が繰り返されるたびに、少しずつ焦点距離が縮まっていく。この回は、局所に閉じた目がいかにして全体の文脈を視界から追い出すか──その構造を追う。

焦点が縮まる過程

違反を止めた経験は、具体的な記憶として残る。あの資材、あの表現、あの条文に照らした判断。次に似た案件が来たとき、脳は最短経路を選ぶ。「これも同じだ」と照合し、同じ結論へ走る。認知科学でいうヒューリスティック──思考の省エネだが、それは同時に、立ち止まって文脈を読む機会を削っていく。

Kahneman が「システム1」と呼んだ自動的処理は速く、努力が要らない。資材審査の日常業務は件数が多い。速さは美徳に見える。しかし速さと引き換えに失われるのは、「この規制はなぜ存在するのか」という問いだ。規制の目的──患者への正確な情報提供、誇大宣伝の防止──は、条文の奥にある。条文だけを見ていると、目的は霞んでいく。

近接視点とは何か

「近接」とは物理的な距離ではなく、思考の粒度のことだ。ある現象を「規則との整合性」という一点だけで評価し、その現象が置かれた文脈──患者の状況、疾患の特性、医療者のリテラシー、競合する情報との比較──を括弧に入れてしまう状態を指す。顕微鏡で細部を見ているとき、周辺視野は暗くなる。近接視点の罠はまさにこれだ。

条文への着地

「この表現は規則の○条に引っかかる」という判断で思考が完結する。なぜその規則があるのか、という遡行が起きない。

事例の同一視

表面的に似た過去事例を「同じ」と見なし、文脈の差異を読み飛ばす。「前もこれで却下した」が判断基準になる。

目的の透明化

規制の目的(患者保護・正確な情報提供)が「当然の前提」として背景に退き、手段(条文の充足)が目的に昇格する。

文脈情報のノイズ化

営業やマーケから提供される現場情報──医師の要望、患者の誤解、競合資材との比較──が「言い訳」に聞こえ始める。

システム思考が指摘する罠

経営学者 Russell Ackoff は「部分を最適化しても、全体は最適化されない」という原則を繰り返し説いた。自動車のパーツを世界最高のものに換えても、それらが噛み合わなければ車は走らない。資材審査でも同じ構造が生じる。個々の資材を条文に対して完璧に適合させることに成功しても、その結果として医師が必要な情報を得られず、患者の治療選択が歪むなら、システム全体は失敗している。

Ackoff はこの現象を suboptimization(局所最適化) と名づけた。部分の最適化が全体の機能を損なう逆説だ。近接視点の審査員は、条文との整合性という「部分」を最適化しながら、規制が本来守ろうとした「情報の質と患者の理解」という全体を劣化させうる。

The performance of a system depends on how the parts interact, not on how they act taken separately. ── Russell L. Ackoff, Re-Creating the Corporation, 1999

「近接」と「俯瞰」の差

観点近接視点(局所)俯瞰視点(全体)
判断の出発点条文・ガイドラインの文字列規制が守ろうとした目的・価値
情報の扱い現場情報は「言い訳」に聞こえる現場情報はシステムの状態を伝えるシグナル
過去事例表面的な類似で同一視する文脈の差異を読み、区別する
「正しさ」の定義条文との整合=正しい患者・医療者・社会への帰結が良い=正しい
失敗の見え方違反を通してしまうこと本来届くべき情報が届かないこと
コスト感覚却下のコストがゼロに見える却下には情報損失というコストがある

過去が視野を形成する

その審査員は、この時期、承認数が減り始めたことに気づいていた。しかし解釈は逆だった。「精度が上がった証拠だ」と思った。実際には、必要な情報が市場に届く量も減っていた。だが近接視点の内側からは、それは見えない。見えるのはルールと資材の距離だけだ。

心理学の研究では、判断者が確証バイアス(confirmation bias)に陥ると、既存の枠組みに合う情報を優先的に処理し、反証を軽視することが繰り返し示されている(Nickerson, 1998)。「却下が正しい」という経験則が形成された後は、承認のケースを正当化する情報より、却下を支持する情報がより鮮明に見える。近接視点とは、確証バイアスが長期化した状態に近い。

「文脈」は言い訳ではない

近接視点の審査員がもっとも苦手とするのは、文脈を持ち込む相手だ。営業が「この疾患領域では、この表現でないと医師に伝わらない」と言う。マーケが「競合他社は同様の表現を使っている」と指摘する。このとき近接視点は、それらを「規則の例外を求める交渉」として処理する。

しかし文脈は交渉ではない。文脈は、システムの状態を伝える情報だ。Ackoff のシステム思考では、部分の挙動はシステム全体の文脈の中でしか理解できない。「この表現がなぜ問題か、あるいはなぜ問題でないか」は、その表現が置かれた情報環境全体を見なければ判断できない。近接視点は、その判断に必要なデータを「ノイズ」として捨てている。

「正しい手続き」と「正しい結果」の乖離

哲学の言葉を借りれば、これは手続き的正義と実質的正義の分裂だ。ルールに則った手続きを踏めば「手続き的には正しい」。だがその結果として患者が正確な情報から遠ざかるなら、「実質的に正しい」とは言えない。近接視点の審査員は、前者しか見えなくなった状態にある。

症状の深まり ── 問いが消える

第一回で描いた発症の時点では、その審査員にはまだ問いがあった。「この指摘は本当に必要か」「相手は意図的に違反しているのか」。問いは、近接視点を一時的に離脱させる機能を持つ。ところが経験が蓄積されるにつれ、問いを発する前に答えが出るようになった。これは熟練ではない。問いを必要としない自動処理への移行だ。

メタ認知研究の文脈でいえば、John Flavell が提唱した「自分の認知過程を監視する能力」が機能しなくなっている。熟練した専門家は速く判断するが、重要な局面では立ち止まる能力も持つ。近接視点に閉じた判断者は、速さと引き換えに「立ち止まるトリガー」を失っていく。

正義病 ── 全 10 回の地図

  1. 第 1 回: 発症 ──「正しさ」の快感 ── 初めて違反を止め感謝され、正しさが報酬になる
  2. 第 2 回 (本回): 近接の罠 ── ルールしか見えなくなる ── 局所に閉じ、文脈(全体)が視界から消える
  3. 第 3 回: 白か黒か ── グレーの消失 ── 二項対立。グレーが「逃げ」に見え始める
  4. 第 4 回: 増幅 ── 主観が「正義」に育つ ── 自分の正しさが肥大し、指摘が目的化する
  5. 第 5 回: ダメ出し屋 ── 周囲が敵に見える ── 協働相手を加害者扱いし、関係が壊れる
  6. 第 6 回: メタ認知の欠落 ── 自分が見えない ── 中核症状。病んでいる自覚を持てない
  7. 第 7 回: 合併症 ── 過剰指摘という害 ── 過剰指摘の害。萎縮と形骸化、全体最適の喪失
  8. 第 8 回: 転機 ── グレーを見た日 ── 白黒で裁けない事例に出会い、確信が揺らぐ
  9. 第 9 回: 寛解 ── 文脈を取り戻す ── 近接から俯瞰へ。何を守るルールかを問い直す
  10. 第 10 回 (最終回): 共生 ── 正義病と生きる ── 完治はない。気づき続けられるかが職業人生を分ける
結語

近接視点は怠惰から生まれない。むしろ勤勉さと誠実さから生まれる。ルールを丁寧に読み、丁寧に照合し、丁寧に判断する。その積み重ねが、気づかぬうちに視野を狭めていく。これが近接の罠の本質的な皮肉だ。真剣であればあるほど、焦点は絞られ、周辺は暗くなる。

「何のためのルールか」という問いは、忙しい審査業務の中では贅沢に見える。しかし Ackoff が教えたように、部分の最適化を積み上げても全体は最適化されない。規制の目的に照らして自分の判断を評価する習慣 ── これは追加の作業ではなく、判断の精度を保つための基礎動作だ。その習慣を持てるかどうかが、次の段階で大きく問われることになる。

次回は、近接視点の深まりとともに起きるもう一つの変化を追う。ルールしか見えなくなった目には、グレーの事例が「逃げ」か「甘え」に映り始める。白か黒かの思考が形成されていく過程──それが第三回のテーマだ。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 近接視点とは条文の文字列だけを見る思考の粒度であり、規制の目的や情報の文脈が視野から消えた状態を指す。
  2. Russell Ackoff の局所最適化の罠が審査業務でも生じる。個々の資材を条文に適合させることと、患者に正確な情報が届くことは、別の問題だ。
  3. 問いが消えることが症状の深まりを示す。「この判断は本当に必要か」と立ち止まる能力を維持できるかが、近接視点から脱する最初の条件になる。
出典・参考文献
  1. Ackoff, R. L. Re-Creating the Corporation: A Design of Organizations for the 21st Century. Oxford University Press, 1999. (システム全体の最適化と部分最適化の違いを詳述)
  2. Kahneman, D. Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux, 2011. (システム1・システム2による自動処理と熟慮処理の対比)
  3. Nickerson, R. S. Confirmation bias: A ubiquitous phenomenon in many guises. Review of General Psychology, 2(2), 175–220, 1998. (確証バイアスの包括的レビュー)
  4. Flavell, J. H. Metacognition and cognitive monitoring: A new area of cognitive-developmental inquiry. American Psychologist, 34(10), 906–911, 1979. (メタ認知概念の提唱論文)