2024 年、FDA が認可した AI・機械学習搭載の医療機器は 331 件に達し、累計は 2026 年 3 月時点で 1,451 件を超えた。AI は医療費と創薬費用をどこまで変えられるのか。現時点の答えは、前臨床の期間短縮と初期相の成功率改善に限定的な証拠があるものの、費用全体を押し下げた実績はまだ確認されていない、である。
01新薬 1 件に 23 億ドル ── 費用推計の前提を見る
Deloitte は 2024 年の報告で、大手 20 社の新薬 1 件あたりの平均開発費用を 22.3 億ドルと推計した。2016 年に DiMasi らが示した資本化費用 25.6 億ドル(2013 年ドル)と方法論は異なるが、いずれも「1 件あたり 20 億ドル超」という水準は変わっていない。費用の大半は臨床試験にかかる。第 III 相の所要期間は前年比 12% 伸び、第 I 相から承認申請までの平均所要時間は 100 か月を超えた。
ここで注意すべきは、これらの推計が「失敗した候補も含む平均」であることだ。臨床開発に入った化合物の約 90% は承認に至らない。成功した 1 件の費用には、失敗した 9 件分の投資が上乗せされている。AI が費用を下げるには、この失敗率そのものか、各段階の期間か、あるいはその両方に作用する必要がある。
02医療費全体の規模 ── GDP の 9.3% を占める支出の内訳
OECD 加盟国の医療支出は 2024 年に GDP 比 9.3% に達した。米国は 16.7% で突出し、日本・ドイツ・フランスは 11〜12% 台にある。この支出のうち、薬剤費は OECD 平均で約 15〜20% を占める。創薬費用が下がれば薬価に反映される可能性があるが、薬価は規制・交渉・特許期間に左右されるため、R&D 費用の変化が直接的に薬価を下げる保証はない。
医療費のうち AI の影響が測定できている領域は限られている。FDA が認可した 1,451 件の AI 搭載機器のうち 76% は放射線科の画像診断に集中しており、創薬や臨床判断支援への波及はこれからの段階にある。
03費用の大きさが持つ意味 ── 創薬費用は参入障壁であり薬価の根拠でもある
開発費 1 件 20 億ドル超という事実は、二つの帰結を持つ。第一に、これは参入障壁として機能する。臨床試験を最終段階まで遂行できる資本を持つ企業は限られ、産業の集中度を高めている。第二に、高い開発費は薬価交渉における正当化の根拠になっている。「R&D 費用を回収できなければ次の新薬は生まれない」という主張は、費用推計の前提によって強くも弱くもなる。
AI が開発費用を下げた場合、この二つの構造が同時に揺らぐ。参入障壁が下がれば競争が増え、費用回収の論拠が弱まれば薬価引き下げの圧力が強まる。だが、どちらも現実に起きるには、AI による費用削減が統計的に検証される必要がある。
04AI が作用する 3 つの段階 ── 標的探索・前臨床・臨床試験
AI が創薬費用に影響しうる段階は三つに分けられる。標的探索(疾患に関与するタンパク質の特定)、前臨床(化合物の設計・最適化・毒性評価)、そして臨床試験(患者選定・試験設計・データ解析)である。
標的探索
ゲノム・プロテオミクスデータからの候補絞り込み。AI は文献と構造データの照合を高速化するが、標的の生物学的妥当性は実験で確かめる必要がある。
前臨床
分子生成モデルによる候補化合物の設計。前臨床の期間を従来の 3〜6 年から 12〜18 か月に圧縮した事例がある。ただし毒性評価の精度は動物実験に依存する部分が残る。
臨床試験設計
バイオマーカーによる患者選定、適応的デザインの最適化。臨床試験コストの 60% 以上は患者募集と管理に費やされるため、ここでの改善は費用に直結する。
規制申請
申請文書の自動生成支援、承認審査の迅速化は規制当局側の AI 活用にも依存する。効果は期間短縮として現れるが、費用への寄与は相対的に小さい。
05AI 創薬の成功率 ── 初期データが示すことと示さないこと
PitchBook の分析によれば、AI を中核に据えたバイオテック企業の第 I 相成功率は 80〜90% で、業界平均の 40〜65% を上回った。第 II 相では 40% で、業界平均の 29% をやはり超えている。ここから全体の承認確率が従来の約 8% から 18% に上昇するとの予測もある。
しかし、この数字には二つの留保が要る。第一に、AI 創薬企業が完了した臨床試験はまだ約 10 件にすぎず、統計的な検出力が不足している。第二に、2024 年末時点で、AI が発見・設計した化合物で規制当局の承認を得たものはない。後期相や市販後の段階で成功率が業界平均に収束する可能性は排除できない。
| 指標 | AI 創薬企業 | 業界平均 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 第 I 相成功率 | 80〜90% | 40〜65% | PitchBook 2025 |
| 第 II 相成功率 | 40% | 29% | PitchBook 2025 |
| 全体の承認確率(予測) | 18% | 約 8% | PitchBook 2025 |
| 完了済み臨床試験数 | 約 10 件 | — | BioSpace 2025 |
06費用が下がる条件 ── 期間短縮と失敗回避の相互作用
創薬費用を構成する要素は三つある。各段階の直接費用、失敗した候補の累積費用、そして資本の機会費用(開発期間中に資金が拘束される時間コスト)だ。DiMasi の 25.6 億ドルのうち、機会費用は約半分を占める。つまり、開発期間を半分にできれば、直接費用が同じでも資本化費用は大幅に圧縮される。
AI が前臨床を 3〜6 年から 12〜18 か月に短縮したという報告が正しければ、この段階の機会費用は大きく下がる。しかし、臨床試験の第 III 相は規制当局が要求する患者数とエンドポイントに縛られるため、AI だけで期間を圧縮することは難しい。費用構造の中で最も大きい部分が、AI の介入が最も難しい部分でもある。
07医療技術評価が AI を測る枠組み ── CHEERS-AI と報告基準
NICE(英国国立医療技術評価機構)は 2024 年に CHEERS-AI を公表した。これは医療経済評価の報告基準 CHEERS 2022 を AI 介入に拡張したもので、従来の 28 項目に AI 固有の 10 項目を加えた 38 項目から成る。追加項目には、AI の学習データの記述、時間経過に伴う性能変化、ユーザー(医療従事者)の自律性の評価が含まれる。ISPOR が正式に承認し、EQUATOR Network のチェックリストにも登録されている。
CHEERS-AI が求めているのは、AI 技術の費用対効果を報告する際に「AI がどう学習し、誰がどの程度の判断権を保持し、性能が時間とともにどう変わるか」を明示することだ。従来の医薬品や医療機器の評価では想定されていなかった動的な性能変化を、経済評価の中に組み込む試みである。
この枠組みが重要なのは、AI 技術が保険償還や公的医療制度に組み込まれる際の基準になるためだ。CHEERS-AI に準拠した報告が蓄積されなければ、AI 医療技術は「効くかもしれないが、費用対効果が不明」という位置づけにとどまる。
08R&D の投資収益率 ── GLP-1 を除くと見える実態
Deloitte の 2024 年報告では、大手 20 社の R&D 投資収益率(IRR)は 5.9% だった。前年の 4.1%、2022 年の 1.2% から回復している。しかし、この改善の主因は GLP-1 受容体作動薬の売上拡大であり、GLP-1 関連資産を除外すると IRR は 3.8% に下がる。
この数字は、AI の費用削減効果をまだ反映していない。AI 創薬企業の多くは上市前の段階にあり、R&D 投資の回収が始まるまでには数年を要する。Deloitte が今後の報告で AI 起源の資産を分離して追跡すれば、AI が開発費を押し下げたのか、単に期間を短縮しただけなのかを区別する手がかりが得られるだろう。
09AI が医療費を下げる経路と、それを阻む構造
AI が医療費全体に作用する経路は三つ考えられる。第一に、創薬費用の低下が薬価引き下げにつながる経路。第二に、診断精度の向上が不要な検査・治療を減らす経路。第三に、臨床判断支援が医療の質を上げて再入院率を下げる経路だ。
しかし、それぞれに構造的な障壁がある。薬価は多くの国で規制や交渉によって決まるため、費用が下がっても薬価がそのまま下がるとは限らない。診断 AI は放射線科に集中しており、内科・外科への展開は臨床検証の蓄積が必要だ。臨床判断支援はワークフローへの統合と医師の信頼獲得が前提になる。技術の進歩だけでは医療費は下がらない。制度・規制・現場の運用が変わって初めて、支出に影響が出る。
- 新薬 1 件の開発費用は 20 億ドル超で推移しており、AI は前臨床の期間短縮と初期相の成功率改善に限定的な証拠を見せているが、費用全体の削減は未実証である。
- AI 創薬企業の第 I 相成功率 80〜90% は業界平均を上回るが、完了した試験は約 10 件にとどまり、承認に至った AI 起源の薬剤はまだない。
- NICE の CHEERS-AI(38 項目)は、AI 医療技術の費用対効果を評価・報告する初の国際基準であり、保険償還への組み込みを左右する。
AI が医療経済に与える影響は、技術の性能ではなく、制度がその性能をどう測定し、どう価格に反映するかで決まる。CHEERS-AI のような評価枠組みの整備は、AI 技術が臨床に定着するための前提条件である。費用削減の期待は根拠を伴って初めて政策に反映される。現時点で言えるのは、初期段階の証拠は出始めているが、医療費全体を変える規模の実績はまだない、ということだ。
- Deloitte. Measuring the return from pharmaceutical innovation 2025: Navigating the GLP-1 boom. Deloitte Centre for Health Solutions, 2025. https://www.deloitte.com/ch/en/Industries/life-sciences-health-care/research/measuring-return-from-pharmaceutical-innovation.html
- DiMasi, J.A., Grabowski, H.G., Hansen, R.W. Innovation in the pharmaceutical industry: New estimates of R&D costs. Journal of Health Economics, 2016. https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0167629616000291
- FDA. Artificial Intelligence and Machine Learning (AI/ML)-Enabled Medical Devices. FDA, 2026. https://www.fda.gov/medical-devices/software-medical-device-samd/artificial-intelligence-software-medical-device
- PitchBook / BioSpace. AI-Enabled Clinical Improvements Confirm Biotech Hype as Success Rates Rise. BioSpace, 2025. https://www.biospace.com/drug-development/ai-enabled-clinical-improvements-confirm-biotech-hype-as-success-rates-rise
- OECD. Health at a Glance 2025. OECD Publishing, 2025. https://www.oecd.org/en/publications/2025/11/health-at-a-glance-2025_a894f72e.html
- NICE. Introducing CHEERS-AI: Improving health economic evaluation reporting for AI technologies. NICE, 2024. https://www.nice.org.uk/news/blogs/introducing-cheers-ai:-improving-health-economic-evaluation-reporting-for-ai-technologies
- Adeoye, J. et al. Consolidated Health Economic Evaluation Reporting Standards for Interventions That Use Artificial Intelligence (CHEERS-AI). Value in Health, 2024. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1098301524023660
- Insilico Medicine. From Start to Phase 1 in 30 Months. Insilico Medicine, 2022. https://insilico.com/phase1
- Wilczok, M. Progress, Pitfalls, and Impact of AI-Driven Clinical Trials. Clinical Pharmacology & Therapeutics, 2025. https://ascpt.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/cpt.3542