「これは常識でしょう」── そう感じた瞬間、私たちは "専門家の呪い (Curse of Knowledge)" の真っただ中にいます。何かを深く知るほど、それを知らない人の視点に戻ることが難しくなる ── これは人間の認知の構造であり、特定の人の傲慢さではありません。資材審査員、医療職、研究者、エンジニア ── 専門領域を持つすべての人が陥る罠です。本回では Camerer らの実験経済学、Pinker の文章論、Heath 兄弟の SUCCES、Polanyi の暗黙知、道元の "初心忘るべからず"、顔回の謙虚な学び ── 六つの伝統に照らして、この呪いの構造と解き方を組み立てます。
01知っているからこそ、伝わらない
新入社員のころ、上司の指摘がなぜそんなに重要なのかわからない。10 年経つと、自分が指摘する立場になる。そのとき、相手がなぜ自分の指摘の重要性をすぐに理解できないのか、不思議に思う ── これは多くの専門職が経験する非対称です。
不思議でも何でもなく、これが 専門家の呪い の本質です。知識を獲得した瞬間に、知識を持たない状態がどんなものだったかを正確に思い出せなくなる。だから、自分にとって明白なことが、相手にとっても明白だろうと無意識に仮定してしまう。資材審査の現場で、薬機法の条文、作成要領の運用、リスクの階層 ── これらが自分にとって "常識" になった瞬間に、それを初めて読む人にとってどれほど複雑かが、見えなくなります。本回が扱うのは、その盲点の構造です。
02Camerer, Loewenstein & Weber「知識の呪い」── 1989 年の経済実験
"知識の呪い (Curse of Knowledge)" の概念を厳密に定式化したのは、米国の経済学者 コリン・カメラー (1959–)、ジョージ・ローウェンスタイン、マーティン・ウェーバー の 1989 年の論文でした。経済予測実験で、内部情報を持つ参加者ほど、その情報を持たない他者の判断を正確に予測できない ── という結果を示しました。
「情報を多く持っている主体は、その情報を共有しない他者の判断を体系的に過大評価する傾向がある。情報の非対称性は、情報を持つ側の認知バイアスを生む」── Camerer, Loewenstein & Weber "The Curse of Knowledge in Economic Settings" (1989) より趣旨
Camerer らの発見が示すのは、知識を持つ側は、知識を持たない側の判断を予測することができない という非対称です。これは情報の問題ではなく、認知の構造の問題です。資材審査員が「この修正の必要性は明白だ」と感じるとき、その明白さは 自分の中で構築された明白さ であって、相手の中で再構築される明白さではありません。両者のあいだには、再構築のための情報の橋渡しが要ります。
03Steven Pinker「文章の難しさの正体は、専門家の呪い」
米国の認知心理学者・言語学者 スティーブン・ピンカー (1954–) は、2014 年の『The Sense of Style』で、なぜ専門家が書く文章は読みにくいのかを徹底的に分析しました。彼の結論は明快です。
「悪文の主な原因は、書き手の悪意でも怠惰でもなく、専門家の呪いである。自分が知っていることを、読み手も知っているはずだと無意識に仮定する。だから書き手は不可欠な文脈を省き、専門用語を説明せず、論理の橋を架けないまま結論に飛ぶ」── スティーブン・ピンカー『The Sense of Style』(2014) より趣旨
Pinker の含意は、悪文を書く専門家を擁護するものでも糾弾するものでもありません。悪文の本質は、書き手の能力ではなく、認知の構造に根ざしている。だから、悪文を改善するには、文章のテクニックではなく、「読み手は私と違う知識状態にある」という事実を絶えず意識する規律 が要る、と。
製薬の現場で、修正依頼書、SOP、説明資料を書くとき、Pinker の問いは応用できます。「この文章で、私が当然と思っている前提のうち、相手が当然と思わないものは何か」── これを一度だけ問うだけで、文章の届き方が変わります。
04Heath 兄弟「SUCCES」── 伝わる伝え方の 6 原則
米国の チップ・ヒース と ダン・ヒース の兄弟は、2007 年の『アイデアのちから (Made to Stick)』で、専門家の呪いを超えて "伝わる" メッセージの 6 つの原則を体系化しました。頭文字を取って SUCCES と呼ばれます。
Simple ── 単純
本質を一つに絞る。専門家ほど "重要なことが複数ある" と感じるが、一つに絞った人だけが届く。
Unexpected ── 意外性
受け手の予想を破る要素。退屈な専門解説は受け手の注意を保持できない。
Concrete ── 具体性
抽象的な原則を具体例で固定する。専門家は抽象を好むが、抽象は伝わらない。
Credible ── 信頼性
権威・データ・実例で裏打ちする。信頼の根拠を明示する。
Emotional ── 感情
受け手の感情に触れる要素。データだけでは届かない。前回 (vol-03) の Aristotle pathos と対応。
Story ── 物語
個別事例を物語として組み立てる。物語は記憶と理解の両方を支える、人類最古の認知装置。
Heath 兄弟が示すのは、専門家の呪いを超えるには、伝え方を技法として設計する必要がある という事実です。SUCCES の 6 原則は、その設計のチェックリストとして使えます。製薬の現場で、修正依頼書を書く前に "S(本質を一つに絞ったか)" "C(具体例で固定したか)" "S(物語として組み立てたか)" を点検するだけで、伝達の質が変わります。
05Polanyi「暗黙知」── 言語化できない専門知の領域
ハンガリー系英国の科学哲学者 マイケル・ポランニー (1891–1976) は、1966 年の『暗黙知の次元 (The Tacit Dimension)』で、知識の本質に根本的な問いを投げました。
「私たちは、語ることができる以上のものを知っている (We can know more than we can tell)。専門家の判断の多くは、言語化されない暗黙の知識に支えられている」── マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(1966)
ポランニーが指摘するのは、専門知識の核心は、しばしば言語化できない という事実です。資材審査員が「これは何かおかしい」と直感する瞬間、その直感は数年から数十年の経験の結晶ですが、その内容を完全に言語化することは難しい。職人の手の動き、医師の臨床判断、料理人の塩加減 ── すべてが同じ構造を持ちます。
暗黙知の存在は、専門家の呪いをさらに難しくします。言語化できない知識を、他者にどう伝えるか。Polanyi 自身の応答は、「体験の共有」と "知の橋渡し" の場の設計 でした。製薬の現場で、新人を育てるとき、SOP や文書だけでは伝わらない判断の質がある。それは "横に座って一緒に見る" 時間でしか伝わらない ── ポランニーの知恵は、こうしたメンタリングの本質を、認識論として裏打ちしています。
06道元「初心忘るべからず」── 知った後にも初心を保つ
東洋の系譜から、専門家の呪いへのもっとも実用的な応答を引きます。世阿弥は『花鏡』(1424) のなかで 「初心忘るべからず」 を、芸道の根本規律として残しました。よく "初心" は「最初の決意」と読まれますが、世阿弥の元の意味は違います。
「初心」とは、各段階で出会う "新しい不慣れ" のことである。「時々の初心忘るべからず」── 若い頃の初心、壮年期の初心、老年期の初心、それぞれを忘れないことが芸道の核心である。
── 世阿弥『花鏡』(1424) 「初心不可忘」項より要旨
世阿弥の "初心" は、専門家の呪いを超える鍵を握っています。知識を獲得しても、その段階での "新しい不慣れ" を覚えておく規律。完全に "知ってしまった" と感じた瞬間に、不慣れだったときの感覚を失う。失った人は、初学者の苦労がわからなくなる。覚えている人は、初学者の視点から再構築できる。
禅宗の 道元 (1200–1253) の影響を受けた "初心" の思想は、世阿弥を経て、現代の専門家教育の隠れた基礎になっています。製薬の現場で、ベテランが新人に教えるとき、自分の初心 ── 初めてその条文を読んだときの戸惑い、初めてその判断に直面したときの不安 ── を覚えていられるかどうかが、教育の質を決めます。
07顔回 ── 学びの謙虚さという基盤
もう一つ東洋から。孔子の高弟 顔回 (顔淵、前 521–前 490) は、『論語』のなかで、学びの謙虚さの極致として描かれています。
子曰、回也、其心三月不違仁、其餘則日月至焉而已矣。
── 子曰く、回(顔回)や、其の心、三月、仁に違(たが)わず。其の余は、則ち日月に至るのみ。(『論語』雍也篇)
孔子は弟子のなかで顔回を群を抜いて愛しました。理由のひとつが、顔回の謙虚さです。「自分はまだ完成していない」と思い続けられる人だけが、学び続けられる。「自分はもうわかった」と感じた瞬間に、学びは止まり、同時に他者に教える質も落ちる。
顔回の謙虚さは、Polanyi の暗黙知、世阿弥の初心と同じ場所を別の言葉で指しています。自分の知識の限界を意識し続ける人だけが、他者に伝えることができる。製薬の現場で、自分の専門領域について "私はまだ完全には分かっていない部分がある" と認められる人は、他者に対して教えるとき、相手の不慣れを尊重できる。"私はもう完全にわかっている" と感じる人は、しばしば相手の不慣れを軽視します。
08専門家の呪いの裏返し ── 通訳としての専門家
専門家の呪いを正しく理解すると、専門家の役割そのものの再定義が見えてきます。専門家は 知識の保有者 であるだけでなく、知識の通訳者 でもある必要があります。
「専門家の社会的役割は、自分が持つ専門知識を、それを持たない他者の言語に翻訳することである。翻訳できない専門家は、知識の保有者ではあっても、社会の役には立てない」── 認識論と科学コミュニケーション論で繰り返し論じられてきた経験的観察より要旨
これを認めると、本回のすべての議論が、新しい光のもとに見えてきます。資材審査員にとって、専門知識を持つことは仕事の必要条件ですが、十分条件ではありません。専門知識を、依頼者・経営層・規制当局という別の言語を持つ世界に翻訳できる ことが、専門家としての完成形です。Pinker の文章論、Heath 兄弟の SUCCES、Polanyi の暗黙知伝達、世阿弥の初心、顔回の謙虚さ ── すべてが、この "通訳" の作法を別の角度から照らしています。
09製薬の現場での専門家の呪い
現場に下ろしましょう。資材審査員が日々遭遇する典型的な専門家の呪いの場面を並べます。
修正依頼書の専門用語
"作成要領 X 条 Y 項に抵触" だけで通じると感じる。しかし新任のマーケ担当者には条文の意味も背景も伝わらない。専門用語の "翻訳" が要る。
"これは常識" の押しつけ
"これは普通の審査基準です" と言ったとき、それは自分の組織と経験の中での "普通" にすぎない。相手の世界の "普通" は違うかもしれない。
新人教育での "なぜできないか" の苛立ち
自分が時間をかけて獲得した直感を、新人に瞬時に獲得することを期待する。世阿弥の "時々の初心" を忘れた瞬間。
経営層への報告での専門性の壁
規制対応の重要性を経営に伝えるとき、専門用語のままだと経営層の判断に届かない。Heath 兄弟の SUCCES が要る場面。
10専門知識を伝える 4 つの作法
六つの伝統が指し示した同じ場所を、日々の実践に落とすための 4 つの作法を置きます。
相手の知識状態を、一度だけ意識する
Camerer / Pinker の問い ── "この文章で、私が当然と思っている前提のうち、相手が当然と思わないものは何か" を、書く前に一度だけ問う。
SUCCES で点検する
Heath 兄弟の 6 原則 ── 単純 / 意外性 / 具体性 / 信頼性 / 感情 / 物語。重要な伝達のときは、6 つのうちいくつが揃っているかを点検する。
時々の初心を、覚えておく
世阿弥の知恵 ── 自分が初めてその条文を読んだときの戸惑い、初めてその判断に直面したときの不安。それを覚えていられる人だけが、初学者に教えられる。
専門家ではなく "通訳" として振る舞う
専門知識を持つことが仕事の目的ではなく、それを別の言語の世界に翻訳することが目的、と捉える。視座そのものが変わる。
知っているからこそ、伝えにくい。これは人間の認知の構造であり、特定の人の傲慢さではありません。Camerer、Pinker、Heath 兄弟、Polanyi、世阿弥、顔回 ── 六つの伝統が、別々の言葉で同じ場所を指していました。専門家の呪いは消せないが、設計で補正できる。専門家の役割は、知識の保有ではなく、知識の通訳である ── この視座そのものが、すべての作法の出発点です。
「これは常識でしょう」── そう感じた瞬間に、もう一度問い直してください。「これは、誰にとって、いつから、常識になったのか」。問いの瞬間が、専門家の呪いを一段階解きます。
- "知識の呪い" (Camerer 1989) は、情報の問題ではなく認知の構造の問題。知識を持つ側は、知識を持たない側の判断を体系的に予測できない。
- 解き方は、SUCCES (Heath 兄弟) のような技法の設計と、世阿弥の "時々の初心" のような規律の両方。専門家の呪いは消えないが、補正はできる。
- 専門家の役割は、知識の保有ではなく、別の言語の世界への "通訳"。視座そのものが変わると、すべての伝達の質が変わる。
- Camerer, Colin, Loewenstein, George & Weber, Martin. "The Curse of Knowledge in Economic Settings: An Experimental Analysis." Journal of Political Economy 97 (5), 1989, pp. 1232–1254.
- Pinker, Steven. The Sense of Style: The Thinking Person's Guide to Writing in the 21st Century. New York: Viking, 2014. (邦訳: 椋田直子訳『スタイルの要素』丸善出版, 2021)
- Heath, Chip & Heath, Dan. Made to Stick: Why Some Ideas Survive and Others Die. New York: Random House, 2007. (邦訳: 飯岡美紀訳『アイデアのちから』日経BP, 2008)
- Polanyi, Michael. The Tacit Dimension. Garden City: Doubleday, 1966. (邦訳: 高橋勇夫訳『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫, 2003)
- 世阿弥『花鏡』(日本, 1424). 「初心不可忘」項. (校注: 表章・加藤周一校注『世阿弥 禅竹』岩波書店「日本思想大系」24, 1974)
- 孔子『論語』(中国, 前 5 世紀頃). 雍也篇 (顔回の章). (邦訳: 金谷治訳注『論語』岩波文庫, 1999)
- 道元『正法眼蔵』(日本, 1231–1253). 「弁道話」. (校注: 増谷文雄訳注『正法眼蔵』講談社学術文庫, 2004–2005)