「あの一件さえなければ、私は違う人生を歩めたはずだ」── そう呟いたとき、私たちは静かに二つの主張を混ぜています。一つは、過去の 事実 を恨んでいる。もう一つは、過去に与えた 意味 に縛られている。事実は確かに変えられません。しかし意味は ── 同じ事実に対して、私たちが今日下す解釈は ── 変えられます。本回では フランクル、アドラー、リクール、仏教の縁起、ニーチェ、五つの伝統が指し示す「過去を書き換える」とはどういうことかを、丁寧に解きほぐします。
01「過去のせい」という、よくある誤読
誰もが一度は思います。「あの上司に当たらなければ」「あのときミスさえしなければ」「もっと早く気づいていれば」。製薬の現場でも、過去のキャリア選択、過去の失敗、過去の人間関係について、似た独り言は珍しくありません。これらの呟きには共通の構造があります ── 過去の事実が、現在の自分を直接的に決定している という前提です。
この前提は、実は怪しい。なぜなら、同じ過去を経験した二人が、まったく違う現在を生きていることが、いくらでもあるからです。同じ薬害事件を見て、業界を去る人もいれば、そこに使命を見出して残る人もいる。同じ厳しい上司の下で、潰れる人もいれば、生涯の師と感じる人もいる。過去は同じでも、現在は違う。違いを生んでいるのは、過去そのものではなく、過去に 与えられた意味 です。
02フランクル「意味への意志」── 事実は変わらない、意味は変わる
20 世紀の心理学者の中で、過去と意味の関係をもっとも極限的な状況から論じたのは、ウィーンの精神科医 ヴィクトール・E・フランクル (1905–1997) でした。アウシュビッツとダッハウの強制収容所を生き延びた彼は、1946 年の『夜と霧』(原題: Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager) で、自身の経験を医学者の眼で記録しました。
「人間から、すべてのものを奪うことはできる。ただ一つ ── 与えられた境遇のなかで、いかなる態度を取るかを選ぶ自由、その自由だけは奪うことができない」── ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(1946) より趣旨を凝縮
フランクルが収容所で見たのは、同じ境遇に置かれた人々が、まったく違う精神的な道筋を辿るという事実でした。生存条件はほぼ同じ。死亡率も統計的に似通っていた。それでも一部の人は、最後まで人間としての尊厳を失わなかった。フランクルは、彼らに共通する特徴を 「意味への意志 (Wille zum Sinn)」 と名づけました。事実(境遇)は変えられない。しかし境遇に対する 態度 ── そこに見出される意味 ── は、最後まで自分のものでありうる。
フランクルが戦後に体系化した ロゴセラピー (Logotherapy) の中心命題が、ここにあります。人間は快楽や権力ではなく、意味を求めて生きる存在である。意味は、現実が与えてくれるものではなく、現実に対して人間が 差し出す ものだ ── これがフランクルの遺した、過去との新しい関係の原型です。
03アドラー「目的論」── 過去は原因ではなく、現在の目的に従属する
フランクルが「収容所の事実」から到達した場所に、半世紀前のウィーンで別の道から到達していたのが アルフレッド・アドラー (1870–1937) でした。アドラーは、人間の行動を原因論ではなく 目的論 (Teleology) で読み解きます。「過去の原因が現在を決める」のではなく、「現在の目的が、過去の意味を選ぶ」と考えたのです。
「経験そのものは、成功や失敗の原因ではない。われわれは経験によって、ショックを受けるのではなく、経験のなかから自分の目的に合うものを取り出して、これに意味を与えるのである」── アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』(1931) より要旨
アドラーの命題は、しばしば誤解されてきました。「過去の出来事は、何の影響もない」と言っているのではありません。彼が言っているのは、同じ過去から、現在の目的次第で、無限に違う "意味" を取り出せる ということです。「失敗から逃げ続けるために、過去を都合よく恨み続ける」のもひとつの選択。「失敗から学んだことを今日に活かすために、過去を都合よく解釈し直す」のも、もうひとつの選択。どちらも、目的が意味を決めています。
製薬の現場で言えば、過去の審査ミスを「自分の限界の証拠」とするか、「学びの源泉」とするかは、過去の事実そのものでは決まりません。今日、自分がどう生きたいかという目的 が、過去のミスの意味を選びます。アドラー的に言えば、過去は私たちの背中を押す力ではなく、私たちが今日の判断で意味を与え続ける素材 なのです。
04リクール「物語的自己」── 私たちは過去を、いま語り直している
フランス現代哲学の ポール・リクール (1913–2005) は、1980 年代から 90 年代にかけて、自己を 物語 (récit) として捉える視座を確立しました。『時間と物語』(1983–85) と『他者のような自己自身』(1990) の中で、彼はこう述べます ── 私たちは固定的な実体ではなく、自分の人生を語り続けることで自分になっている と。
「物語的アイデンティティ (identité narrative) は、変わらない同一性 (idem) と、変わりながら同じであり続ける自己性 (ipse) の弁証法のうちにある」── ポール・リクール『他者のような自己自身』(1990) より趣旨を凝縮
リクールが指摘するのは、私たちが自分の過去について語るとき、それは 記録された事実をそのまま再生する のではなく、毎回、現在の私が、現在の文脈で、過去を編集している ということです。同じ出来事について、20 代の私と 40 代の私と 60 代の私は、まったく違う物語を語ります。事実は変わらないのに、物語は変わる。なぜなら、語り手が変わっているからです。
これは "嘘をつく" こととは違います。過去を都合よく歪曲することではなく、過去の 意味の重み を、現在の文脈で配り直すことです。製薬の現場で、「あの上司に厳しく育てられた」という事実について、若いころは「理不尽だった」と語っていたものが、後年「自分の倫理観の基礎を作ってくれた」と語り直されることがあります。事実(厳しく指導された)は同一。しかし物語(意味の配置)が、現在の自分から見直されている。リクールが教えるのは、過去は記憶のなかで凍結されているのではなく、私たちの現在の語りのなかで、毎日少しずつ書き直されている ということです。
05仏教の縁起 ── 過去は原因ではなく、条件である
東洋の系譜は、もう一段深い場所からこの問題を照らします。仏教の中核的な世界観である 縁起 (pratītyasamutpāda、依他起性) は、すべての現象を 原因と結果の単線ではなく、無数の条件の相互依存 として捉えます。
「此(これ)有るが故に彼(かれ)有り、此生ずるが故に彼生ず。此無きが故に彼無く、此滅するが故に彼滅す」── 『雑阿含経』(縁起の基本式) より
縁起の世界観で見ると、「過去の出来事 A が、現在の自分 B を生んでいる」という単線的な因果は、すでに粗い読みです。実際には、A は B を 条件づける のであって、決定する のではない。A と B の間には、無数の他の条件 ── その後の出来事、他者との関係、自分自身の選択、社会の文脈 ── が交差しています。過去は、現在を一方的に決定する原因ではなく、現在を成り立たせる無数の条件のひとつにすぎない。
この見方は、過去の責任を否定するものではありません。むしろ、過去だけに重みを置きすぎる単純な因果論からの解放です。製薬の現場で、過去の組織文化や薬害の歴史は確かに現在を条件づけています。しかし条件は決定ではない。私たちが今日下す判断は、過去の条件と現在の選択の 合作 として、未来を新たに条件づけていく。これが縁起的な過去との関わり方です。
06第二の矢を放たないこと ── 仏教の「苦」の二重構造
仏教にはもう一つ、過去と意味の関係について本質を突く譬えがあります。第二の矢 (二の矢) です。『雑阿含経』に伝わるブッダの教えに、こうあります。
「凡夫は、痛みという第一の矢を受けた後、嘆き、悲しみ、怒り、自責という第二の矢を、自分自身に放つ。智慧ある者は、第一の矢の痛みは受けるが、第二の矢は放たない」── 『雑阿含経』第 17 巻「箭喩経」より趣旨
ブッダが指摘するのは、人間の苦しみのほとんどが 第二の矢、つまり 事実そのものではなく、事実に対する自分の解釈・反応・反芻 から生じているという事実です。過去のミスは第一の矢。「自分はダメだ」「もう取り返しがつかない」「あの一件で自分の人生は変わってしまった」という反芻は、自分が自分に放ち続ける第二の矢です。
過去を書き換えるとは、第一の矢の事実を消すことではありません。第一の矢は確かに当たった。事実は事実です。書き換えられるのは 第二の矢を放ち続けるかどうか の選択です。製薬の現場で、過去の出来事への反芻が止まらない瞬間に問うべきは ── これは第一の矢の痛みか、それとも自分が自分に放ち続けている第二の矢か。第二の矢を一本減らすこと も、過去の書き換えのひとつの形です。
07ニーチェ「運命愛 (amor fati)」── すべてを「そうあれかし」と言える境地
西洋哲学の系譜では、過去への究極的な態度として フリードリヒ・ニーチェ (1844–1900) の 運命愛 (amor fati) があります。『この人を見よ』(1888) や『悦ばしき知識』(1882) で繰り返し語られた、彼の哲学の到達点のひとつです。
「私の人間における偉大さへの定式は amor fati である。先にも、後にも、永遠にも、何ひとつ違ったものを欲しないこと。必然を耐え忍ぶだけではなく、ましてや隠すのでもなく ── ありとあらゆる理想主義はその必然の前で嘘をつく ── 必然を 愛する ことである」── ニーチェ『この人を見よ』(1888)
ニーチェの運命愛は、しばしば「諦観」や「受動的諦め」と誤読されます。違います。これは、過去のすべての出来事 ── 喜びも、苦しみも、失敗も、不正も ── を、自分の現在を構成する不可欠な要素として 能動的に肯定する 態度です。「もしあれがなかったら、いまの私はない。だから、あれは肯定する」── これが運命愛の論理です。
製薬の現場で運命愛を持ち出すのは、過去の過ちを無批判に肯定することではありません。そうではなく、過去のすべてを引き受けたうえで、それでも前を向く決意 のことです。過去の薬害の歴史を、無かったことにはできない。過去の自分のミスを、消し去ることはできない。しかしそれら全てを、現在の自分を作る素材として引き受けることはできる。引き受けた瞬間、過去は重荷から土台に変わります。
08過去は誰にとってあるのか ── 鴨長明から現代心理学まで
鎌倉時代の『方丈記』(1212) で、鴨長明は冒頭にこう書きました。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。すべては流れ続け、同じものは二度とない ── 仏教の無常観を、日本語の散文がたどり着いた一つの極点です。
現代の心理学は、別の角度からこの直観を裏打ちしてきました。神経科学の 再固定化 (Reconsolidation) 研究は、記憶が呼び出されるたびに、いったん不安定になり、再び固定化される過程で 少しずつ書き換えられている ことを示しています。「変わらない過去」は、神経学的にも存在しません。私たちは、過去を毎日 再構成し直している。
この事実をどう生きるか。リクールは「語り直す」と言い、フランクルは「意味を見出す」と言い、ニーチェは「肯定する」と言い、仏教は「縁起と無常を観る」と言いました。どの伝統も、過去は受動的に背負うものではなく、現在の判断で能動的に関わるもの として描いています。これは虚構の押し付けではなく、人間の心が実際にそう動いている、という事実に対する誠実な対応です。
09製薬の現場で「過去を書き換える」── 失敗の意味を再構成する
抽象論を、現場に下ろしてみましょう。資材審査員にとって過去とは何か。それは ── 自分が見落とした過去の不備、自分が出した過去の判断、上司や同僚との過去のすれ違い、業界全体の過去の薬害史、組織が辿ってきた過去のコンプライアンス事案 ── これらすべての層を含みます。
自分の過去のミス
「あのとき、もっと深く読み込んでいれば」── これを第二の矢として放ち続けるか、「あのミスがあったからこそ、いま見えるものがある」と意味を組み直すか。事実は同じ、意味は今日選べる。
過去の組織文化
「昔はこうだった」「昔はもっと厳しかった」── これを停滞の原因とするか、「過去がそうだったからこそ、今はこう変えていこう」と現在の目的に従属させるか。アドラー的な目的論の応用。
業界の薬害史
過去の薬害は事実として存在する。これを「業界の暗部」として遠ざけるか、「自分の仕事に倫理的な重みを与えてくれる礎」として引き受けるか。ニーチェ的運命愛の応用。
いずれのケースでも、事実は変わりません。変わるのは、その事実に対して今日の自分が下す解釈と、その解釈から動き出す行動です。「過去を書き換える」とは、自己欺瞞ではありません。過去という素材から、現在の自分が誠実に意味を取り出し直す作業 です。
10今日の判断で過去を書き換える 4 つの動き
五つの伝統が指し示した同じ場所を、日々の実践に落とすための 4 つの動きを置きます。
事実と解釈を分ける
過去の出来事を語るとき、「何が起きたか (事実)」と「それが何を意味するか (解釈)」を意識的に分けて言葉にする。混ざっている限り、書き換えの余地は見えない。
第二の矢を見つける
反芻している自分に気づいたら問う。これは第一の矢の痛みか、それとも自分が自分に放ち続けている第二の矢か。一本減らせるなら減らす。
現在の目的から過去を見る
アドラー的問い ── 「私は今日、何のために生きたいのか。その目的から見たとき、この過去はどんな素材になるか」を、ときどき自分に投げる。
運命愛の問い
ニーチェ的問い ── 「もしあの出来事がなかったら、いまの私はあるのか。なくてもよかったと、心から言えるか」を試す。引き受けられるなら、過去は重荷から土台に変わる。
事実は変えられません。しかし意味は ── 今日の判断で、過去のすべての事実に新しい意味を差し出すことは ── できます。フランクル、アドラー、リクール、仏教の縁起と二の矢、ニーチェ ── 五つの伝統が、別々の言葉で、同じ場所を指していました。過去は固定された記録ではなく、現在の自分が毎日関わり続ける素材 です。
「あの一件さえなければ」── そう呟きそうになったとき、そっと続けてください。「あの一件があったから、いま、こう生きている」。事実は同じ。意味は、今日の判断で書き換えられる。
- 過去の事実は変えられないが、過去に与える意味は、今日の判断で書き換えられる。フランクル「意味への意志」、アドラー「目的論」、リクール「物語的自己」、仏教「縁起」、ニーチェ「運命愛」── 五つの伝統が同じ場所を指している。
- 第一の矢 (事実の痛み) と第二の矢 (反芻による苦しみ) を分けることが、書き換えの起点。第二の矢を一本減らすだけでも、過去の重さは変わる。
- 過去を書き換える 4 つの動き ── 事実と解釈を分ける / 第二の矢を見つける / 現在の目的から過去を見る / 運命愛の問いを試す。
- Frankl, Viktor E. Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager. Wien: Verlag für Jugend und Volk, 1946. (英訳: Man's Search for Meaning, 1959 / 邦訳: 池田香代子訳『夜と霧 新版』みすず書房, 2002)
- Adler, Alfred. What Life Should Mean to You. London: George Allen & Unwin, 1931. (邦訳: 岸見一郎訳『人生の意味の心理学』アルテ, 2010)
- Ricœur, Paul. Soi-même comme un autre. Paris: Seuil, 1990. (英訳: Oneself as Another, 1992 / 邦訳: 久米博訳『他者のような自己自身』法政大学出版局, 1996)
- Ricœur, Paul. Temps et récit (3 vols). Paris: Seuil, 1983–1985. (邦訳: 久米博訳『時間と物語 I–III』新曜社, 1987–1990)
- 『雑阿含経』(中国・劉宋, 求那跋陀羅訳, 435–443 年頃). 縁起の基本式 + 第 17 巻「箭喩経」。(邦訳: 大蔵経『南伝大蔵経』相応部, 大蔵出版)
- Nietzsche, Friedrich. Ecce Homo. Leipzig: Insel-Verlag, 1908 (執筆 1888). (邦訳: 川原栄峰訳『この人を見よ』ちくま学芸文庫, 1994)
- 鴨長明『方丈記』(日本, 1212). (校注: 浅見和彦校訂・訳『方丈記』ちくま学芸文庫, 2011)