01株式取引の 60〜70% はアルゴリズムが動かしている
米国の株式市場では、取引量の 60〜73% がアルゴリズムによって執行されている。SEC が 2020 年に公表した報告書は、高頻度取引を含むアルゴリズム取引が市場構造の中核を占めていると認めた。欧州やアジアでも比率は上昇しており、東京証券取引所では注文件数の約 70% が自動発注である。
こうした比率は、もはやアルゴリズム取引が「特殊な手法」ではなく「市場の標準」であることを意味する。問題は、標準であることが安定を保証するかどうかにある。
022010 年 5 月 6 日、36 分で約 1 兆ドルが消えた
2010 年 5 月 6 日午後 2 時 32 分(東部時間)、ダウ平均は 998.5 ポイント、約 9% 下落した。時価総額にして約 1 兆ドルが 36 分間で消失し、その大半はさらに短い数分間に集中した。SEC と CFTC が同年 9 月 30 日に公表した共同報告書は、直接の引き金として、ある大口の機関投資家が E-mini S&P 500 先物を約 41 億ドル分、75,000 枚売却する注文を自動執行アルゴリズムに委ねたことを挙げた。
高頻度取引業者は当初この売り圧力を吸収したが、数分後に流動性が急速に枯渇した。報告書は「市場全体の流動性が完全に蒸発した」と記述している。20,000 件以上の約定が、直前価格から 60% 以上乖離した水準で成立した。その多くは個人投資家の口座だった。
03フラッシュ・クラッシュ後の制度対応は速度制限にとどまった
フラッシュ・クラッシュを受けて、SEC は 2012 年に二つの制度を導入した。一つは個別銘柄の急変動を一時的に止める Limit Up-Limit Down(LULD)計画で、もう一つは市場全体のサーキットブレーカーの改定である。LULD は直近 5 分間の平均価格から一定幅を超える注文の執行を止める仕組みで、S&P 500 構成銘柄では上下 5%、その他の銘柄では 10% が基準となった。2019 年に恒久化されている。
市場全体のサーキットブレーカーは、S&P 500 が前日終値から 7%・13%・20% 下落した時点で取引を停止する三段階に改められた。2020 年 3 月の新型コロナウイルスに伴う急落では、7% のレベル 1 が 4 回発動している。
これらの制度は急落の「深さ」を制限する効果があった。しかし、根本的な問いに答えてはいない。なぜ流動性は一瞬で消えるのか。なぜ複数の取引主体が同じ方向に同時に動くのか。
04IMF は同じ AI モデルへの依存が群集行動を招くと指摘した
2024 年 10 月、IMF は『Global Financial Stability Report』第 3 章「Advances in Artificial Intelligence: Implications for Capital Market Activities」を公表した。報告書は、AI の普及が市場を効率化する一方で、群集行動と市場集中を最大級のリスクとして挙げている。
報告書が示した具体的な事実がある。AI 駆動型 ETF は、一般的なアクティブ運用型 ETF と比べて売買回転率が著しく高い。通常のアクティブ ETF が年 1 回未満の回転であるのに対し、AI 駆動型 ETF はおよそ月 1 回の回転を行う。2020 年 3 月の市場混乱時には、複数の AI 駆動型 ETF で回転率がさらに上昇しており、ストレス期に売りが同期する傾向を示した。
この同期の原因は明確である。多くの運用者が同じ基盤モデル、同じ訓練データ、同じ特徴量を使えば、出力される売買判断は似通う。市場が安定しているときは分散に見えても、ストレス時に同じシグナルが点灯すれば一斉に同じ方向へ動く。
05製薬セクターの株価は臨床試験の結果で動く——AI はその速度を変えた
アルゴリズム取引のリスクは、製薬・医療セクターにも直結する。Scientific Reports に 2023 年に掲載された研究は、FDA の臨床試験発表 5,436 件(2018〜2022 年、681 社)を対象に、機械学習モデルで株価反応を予測する枠組みを構築した。BERT による感情分析、Temporal Fusion Transformer による予測、グラフ畳み込みネットワークによる関連性抽出を組み合わせている。
この研究が示すのは、臨床試験の成功・失敗が株価を動かす速度が、AI によって短縮されているという事実である。かつて人間のアナリストが数時間かけて読み解いていた試験結果を、自然言語処理モデルは数秒で解析し、アルゴリズムが即座に売買を執行する。試験結果の公表から株価反応までの時間が圧縮されるほど、人間の判断が介在する余地は狭まる。
| 観点 | 従来の取引 | AI アルゴリズム取引 | 変化の方向 |
|---|---|---|---|
| 情報解析の速度 | アナリストが数時間〜数日で分析 | NLP モデルが秒単位で解析 | 判断の時間窓が大幅に縮小 |
| 売買の同期性 | 個々の判断にばらつき | 同じモデルが同じシグナルで動く | ストレス時に一方向へ集中 |
| 流動性の安定 | マーケットメイカーが継続提供 | 損失回避アルゴリズムが一斉撤退 | 流動性の「蒸発」リスク |
| 規制の対応速度 | 事後的なルール改定 | 技術進化が規制を超える速度 | 制度の遅れが拡大 |
06モデルの集中はなぜ起きるのか——データと基盤の寡占
群集行動の根は、モデルの設計思想ではなく、インフラの構造にある。
第一に、データの寡占がある。金融市場のデータ供給者は少数に集中しており、IMF の報告書はこれを「データ寡占」と呼んでいる。同じデータで訓練されたモデルは、異なる開発者が作っても似た判断を出力する。
第二に、基盤モデルの集中がある。大規模言語モデルや深層学習フレームワークの開発は少数の企業に集中している。FSB は 2024 年 11 月の報告書で、第三者依存とサービス提供者の集中を金融安定上の主要な脆弱性として挙げた。2025 年 10 月の続報でもこの懸念は維持されている。
第三に、成功したモデルへの追随がある。高い収益を出した戦略は公開・模倣され、結果として市場全体が同じ方向に偏る。IMF はこれを「勝者総取り」のシナリオとして警告している。
07実務で取れる対応——多様性の確保と速度の制御
制度と実務の両面で、対応はすでに動いている。
規制側では、サーキットブレーカーと LULD の改善が継続している。イングランド銀行は 2025 年 12 月の金融安定報告書で、AI 取引がボラティリティを増幅するリスクを指摘し、監視の強化を求めた。IMF は 2025 年の技術ノートで、証券市場における AI 利用の規制上の考慮事項を整理している。
運用側では、モデルの多様性確保が重要な課題である。同じ基盤モデルを使っていても、訓練データ、特徴量の選択、リスク管理の閾値を変えることで、出力の相関を下げることは可能である。複数のモデルを併用し、モデル間の出力が一致したときにのみ大口の売買を執行する仕組みを取る運用者もいる。
ストレステストも変わりつつある。従来のストレステストは「市場が 20% 下落したら」という前提で行われていたが、モデルの同期リスクを考慮するなら「自社と同じモデルを使う運用者が同時に売却したら」という前提を加える必要がある。
モデルの多様化
訓練データ・特徴量・閾値を変え、同一基盤モデルでも出力の同期を防ぐ。複数モデルの併用で判断の偏りを検知する。
速度の制御
大口注文に最低執行時間を設定する、ストレス時にアルゴリズムの速度を制限するなど、速度そのものを制御対象にする。
ストレステストの更新
「市場が下落したら」だけでなく、「同じモデルの利用者が同時に動いたら」をシナリオに加え、流動性枯渇の影響を測る。
透明性の確保
どの基盤モデルを使っているか、どのデータ供給者に依存しているかを規制当局に報告する仕組み。FSB が求める方向。
08市場の効率と安定は同時に成り立つか
アルゴリズム取引は市場を効率化した。スプレッドは縮小し、執行コストは下がり、価格発見は速くなった。しかし、効率化と安定は別の問いである。2010 年のフラッシュ・クラッシュは、効率化された市場が 36 分で約 1 兆ドルの時価総額を消失させうることを示した。
AI の導入はこの構図を変えていない。むしろ、同じモデルへの依存という新しい経路で、同じ種類のリスクを再生産している。IMF が 2024 年に示した群集行動のリスクは、2010 年の流動性蒸発と本質的に同じ力学である。違いは、速度がさらに上がり、判断の同期がより深くなっていることにある。
制度は速度に追いつこうとしている。サーキットブレーカーは事後的な安全弁であり、モデルの集中という構造的なリスクには対処できない。FSB と IMF が求めているのは、速度制限ではなく、モデル利用の透明性と多様性の確保である。金融の安定は、技術の進歩を止めることではなく、技術が生む同質性を制御することで守られる。
- 米国株式取引の 60〜73% はアルゴリズムが執行しており、AI モデルの導入がさらに進んでいる。2010 年のフラッシュ・クラッシュは、自動執行の集中が 36 分で約 1 兆ドルの時価総額を消失させうることを実証した。制度は LULD とサーキットブレーカーで対応したが、根本原因である流動性の一斉消失には十分に対処していない。
- IMF は 2024 年の報告書で、同じ AI モデル・同じデータへの依存が群集行動を招き、ストレス時に売りが同期するリスクを指摘した。AI 駆動型 ETF は通常の ETF より売買回転率が著しく高く、2020 年 3 月の混乱時に回転率がさらに上昇した事実が、この懸念を裏付ける。
- 対応の方向は「速度制限」から「多様性の確保」へ移りつつある。モデルの訓練データ・特徴量・閾値を変えて出力の相関を下げること、ストレステストにモデル同期のシナリオを加えること、モデル利用の透明性を規制当局に開示することが、FSB と IMF が示す方向である。
アルゴリズム取引は市場の標準になった。AI はその標準をさらに速く、さらに同質にしている。効率化の恩恵は現実のものだが、同じモデルに依存する市場は、平時に分散に見え、ストレス時に一方向へ崩れる。2010 年のフラッシュ・クラッシュが示した流動性の蒸発は、AI 時代においてモデルの集中という新しい形で再現されうる。制度が速度に追いつくためには、サーキットブレーカーの改善だけでなく、モデルの多様性と透明性を確保する枠組みが要る。技術の進歩を止めることではなく、技術が生む同質性を制御すること——それが資本市場の安定を守る条件である。
- SEC / CFTC. Findings Regarding the Market Events of May 6, 2010. 2010. https://www.sec.gov/news/studies/2010/marketevents-report.pdf
- SEC. Staff Report on Algorithmic Trading in U.S. Capital Markets. 2020. https://www.sec.gov/files/algo_trading_report_2020.pdf
- IMF. Global Financial Stability Report, October 2024, Chapter 3: Advances in Artificial Intelligence: Implications for Capital Market Activities. 2024. https://www.imf.org/en/publications/gfsr/issues/2024/10/22/global-financial-stability-report-october-2024
- FSB. The Financial Stability Implications of Artificial Intelligence. 2024. https://www.fsb.org/2024/11/the-financial-stability-implications-of-artificial-intelligence/
- FSB. Monitoring Adoption of Artificial Intelligence and Related Vulnerabilities in the Financial Sector. 2025. https://www.fsb.org/2025/10/monitoring-adoption-of-artificial-intelligence-and-related-vulnerabilities-in-the-financial-sector/
- SEC. “Limit Up-Limit Down” Plan and Circuit Breakers Approved. 2012. https://corpgov.law.harvard.edu/2012/06/13/limit-up-limit-down-plan-and-circuit-breakers-approved/
- Bank of England. Financial Stability Report, December 2025. https://www.bankofengland.co.uk/-/media/boe/files/financial-stability-report/2025/financial-stability-report-december-2025.pdf
- Mazzarisi, P. et al. New drugs and stock market: a machine learning framework for predicting pharma market reaction to clinical trial announcements. Scientific Reports, 2023. https://www.nature.com/articles/s41598-023-39301-4
- IMF. Regulatory Considerations Regarding Accelerated Use of AI in Securities Markets. Technical Notes and Manuals, 2025. https://www.elibrary.imf.org/view/journals/005/2025/016/article-A001-en.xml