01数字で見る 2025-2026 ── AI 創薬の現在地
ここで言う「Phase(フェーズ)」とは、薬を人で試すときの段階のことです。少人数で主に安全性を見るのが Phase I、もう少し人数を増やして効くかどうかを見始めるのが Phase IIa、最後に大人数で本当に効くかを確かめるのが Phase III です。番号が大きいほど後の段階で、患者さんの数も多くなります。
注目したいのは、最初の Phase I を通過する割合が 80〜90% という数字です。これまでの薬づくりでは Phase I を通過できるのは半分ほど(52% 程度)でした。AI が候補を選ぶ精度を高めた結果、最初から 「人で効きそうな見込みの高いもの」だけが選ばれている、ということを表しています。
02Insilico Medicine ── 生成 AI 創薬の最前線
過去 1 年で最も象徴的な進展が、Insilico Medicine の rentosertib です。
- 狙う病気: 特発性肺線維症(IPF)。肺の組織がだんだん硬くなって、息がしづらくなる原因不明の難病です
- 狙う相手(標的): TNIK というタンパク質。薬が効くために狙い撃ちする体内の部品を「標的」と呼びます。TNIK は病気の進行に関わるとされる酵素の一種です
- つくり方: 同社の "Chemistry42" という、薬の候補を AI が考え出す仕組みで設計しました
- 進み具合: 2026 年初めに Phase IIa(中規模の人での試験)を終え、安全そうで効きそうという手応えを確認
- 意味: AI が一から設計した薬として、初めて Phase IIa を通過した例
- 次の段階: 大人数で確かめる Phase III の試験へ進む準備中
これは「薬が 1 つ成功した」だけの話ではありません。AI が、薬で狙う相手を見つける(標的を探す)→ その相手に合う候補のもとになる物質(リード化合物)を設計する → 人で試す候補を選ぶ、までを担当し、人間の研究者は後半の確認作業に集中するという、新しい薬づくりのやり方が、初めて表に出た成功例なのです。
03大手製薬の動き ── 提携と買収の活発化
2025〜2026 年は、大手の製薬会社が AI 創薬を「様子見」から「本格的に使う」へ切り替えた 1 年でもありました。下に主な提携・買収を並べます。
Pfizer × Boltz
大型の AI モデルでの提携。Boltz が持つ「タンパク質の立体的な形を予測する AI」を、Pfizer の薬づくりの流れに組み込みました。タンパク質の形が分かると、そこに合う薬を設計しやすくなります。
Bayer × Cradle
Cradle の「タンパク質を設計する AI」を採用。狙った働きをするタンパク質を作りやすくなり、抗体(体内で異物を捕まえるタンパク質)を使う薬の候補を、より広く探せるようになりました。
Eli Lilly × NVIDIA
薬づくり専用の大型計算設備(AI ファクトリー)を一緒につくる連携。NVIDIA の高性能な計算チップ(H100/H200 GPU)をたくさん並べ、AI を高速に動かすための土台を整えました。
Recursion × Exscientia (買収)
2025 年に Recursion が Exscientia を買収しました。AI で薬を探す会社どうしが一つになったことで、AI で薬の候補を設計する力と、「表現型スクリーニング(細胞に候補を片っ端から試して、見た目や働きの変化から効きそうなものを探す方法)」の力を合わせた、大きな研究体制が生まれました。業界の再編を象徴する動きです。
04技術的ブレークスルー ── AlphaFold3 / OpenFold3
AlphaFold3(Google DeepMind / Isomorphic Labs が開発)と、その公開版にあたる OpenFold3 は、2024 年後半に発表され、2025 年から研究現場で本格的に使われ始めました。これらは「タンパク質などの分子がどんな立体的な形になるか」を AI で予測する道具です。
- 薬と標的のくっつきやすさを予測: 薬の候補(リガンド=標的にくっつく小さな分子)が、狙うタンパク質にどれだけよく結びつくかを、これまでの方法より 約 1,000 倍速く 計算できます
- 狙える相手が増える: これまで形を調べるのが難しかったタンパク質も、AI で形を予測して薬の標的にできます
- 薬にできる範囲が広がる: 以前は「薬をつくるのは無理」とされていた相手にも挑戦できるようになりました
- RNA・DNA なども予測: AlphaFold3 はタンパク質以外の生体分子も扱えるようになり、使える場面が広がりました
この結果、AI は 狙う相手を見つける → 候補を磨き込む → 人での試験を設計するまでを、ひとつながりで速められる段階に入りました。
05残る課題 ── Phase III データと規制承認
| 課題 | 現状 | 解決見込み |
|---|---|---|
| Phase III データ不足 | Phase IIa 成功まで多数、Phase III 完了は限定的 | 2026-2027 年に複数の Phase III 結果が出る見通し |
| 初の "完全 AI" 承認 | FDA 等の承認に AI 由来であることの明確な記載例はまだない | 2026-2027 年に最初の事例予測 |
| 規制ガイドライン | FDA、EMA、PMDA で AI 由来創薬の評価フレームを整備中 | 2026-2027 年に各国でガイドライン確定 |
| データバイアス | 訓練データの偏りが特定患者集団で効果差を生む懸念 | 多様性データセット構築の取り組み進行中 |
| IP・特許の扱い | AI が設計した化合物の特許性に法的議論あり | USPTO 等で判例蓄積中 |
業界予測では、2025-2030 年に 200 以上の AI 関連承認 が見込まれ、製薬の R&D パラダイムを根本から変革すると見られています。
06製薬業界の構造変化 ── R&D パラダイムの再定義
AI 創薬の進展は、製薬業界の R&D 構造そのものを変えつつあります。
- 研究員の役割変化: 化合物設計 → AI が担当、研究員は "AI が出した候補の解釈と検証" に集中
- 標的の射程拡大: 創薬可能空間が拡大し、難治疾患・希少疾患へのアプローチが現実化
- 提携モデルの変化: AI スタートアップとの提携が R&D 戦略の中核に
- 競合構造の変化: AI 創薬プラットフォームを持つ企業 vs. 持たない企業の格差拡大
- 人での試験のやり方が変わる: AI が、試験の設計、参加する患者さんの選び方、結果の良し悪しを測る指標(エンドポイント)の分析にも関わるようになる
07関連動向との接続
AI 創薬は、他の動向と接続しています。
- 中東・中国の AI 診療 ── 治験場としての中国・中東の重要性が増す。AI 創薬で生まれた候補化合物の臨床試験がここで加速
- AI による社会構造変化 ── 創薬研究員の役割再定義は、製薬業界の雇用構造に影響
- Novartis CEO Anthropic Board 就任 (別稿) ── 安全志向 AI 企業と製薬の戦略的融合の象徴
過去 1 年は、AI 創薬が "実験段階" から "臨床検証段階" へ移行した、業界にとって決定的な 1 年でした。Insilico の rentosertib Phase IIa 成功は、生成 AI が設計した分子が実際に人体で動くことを示した、最初の公開された事例です。
製薬業界にとって AI は、もはや "作業を速くする道具" にとどまりません。"薬づくりの仕組みそのものを作り直す変化" です。開発に 10 年、数十億ドルかかり、しかも失敗が多い ── という従来の薬づくりが、AI によって期間も費用も大きく下がる。その時代が本格的に来た、というのが過去 1 年の結論です。
次の 5 年で、業界内の構造的地位が決まります。AI 創薬への投資、提携、社内体制構築 ── これらの判断を今行えるか否かが、5 年後の景色を決めます。
参考情報源
- HUSPI 「AI Drug Discovery State of the Art 2026」
- Drug Target Review 「AI in Drug Discovery: 2025 Annual Report」
- Insilico Medicine 公式発表 (rentosertib Phase IIa 結果)
- 各社プレスリリース (Pfizer-Boltz, Bayer-Cradle, Eli Lilly-NVIDIA)
- Google DeepMind / Isomorphic Labs (AlphaFold3 発表 2024)