この山に、頂上はあるのだろうか。ずいぶん長く登ってきて、私はまだ着かない。ただ、着かないことが分かってきた分だけ、登り方は変わった。頂上の有無より、登っている自分に何が起きているかのほうが、いまは問いとして大きい。

01この山に、頂上はあるのか

机の上に、今日もよく似た形の資材が積まれている。去年見たものと同じ論点、同じ迷い方、同じ直し方。押し上げた岩が、夜のあいだにまた転がり落ちている。そういう感覚を、この仕事で何度も味わった。

アルベール・カミュが取り上げたシーシュポスは、神々から罰を受けた男だった。巨大な岩を山頂まで押し上げる。着いた瞬間に岩は転がり落ちる。また押し上げる。永遠に。神々が考えた最悪の罰は、無益で希望のない労働だった。

ところがカミュは、この話を絶望の物語として閉じなかった。岩が転がり落ちたあと、シーシュポスは山を下りていく。その下り坂の時間に、彼は自分の運命を見下ろしている。運命を見下ろす者は、それより高いところにいる。カミュは最後にこう書いた。頂上を目指す闘い、それだけで人間の心を満たすのに十分だ、と。

私はこれを、我慢の勧めとして読まない。意味は頂上に置かれているのではなく、登っている側に発生しているという順序の話だと読む。頂上に意味があるなら、着くまでの全期間は手段になってしまう。そして着かなければ、その全部が無駄だったことになる。順序を入れ替えると、無駄になる時間はなくなる。

02同じ一年が、同じ長さではない

この仕事に就いた最初の一年は、途方もなく長かった。覚えることが多すぎて、一日が三日分あった。十年目の一年は、あっという間だった。忙しさは変わっていない。むしろ増えている。それでも短い。

アンリ・ベルクソンは、時間には二種類あると考えた。ひとつは時計が刻む時間。等しい長さの目盛りが並んだ、量としての時間だ。もうひとつは、生きられている時間。彼はこれを純粋持続と呼んだ。こちらは目盛りを持たない。伸びたり縮んだりする、質としての時間である。

新人の一年が長いのは、時計が違うからではない。初めて出会うものの量が違うからだ。初めての類型の資材、初めての判断、初めての差し戻し。ひとつひとつが痕跡を残す。十年目には、その多くが既知になっている。既知は痕跡を残さない。だから短い。

セネカは二千年前に、人生は短いのではないと書いた。短いのではなく、私たちが短くしている。時間は十分に与えられていて、浪費されているだけだ、と。厳しい言い方だが、彼の言う浪費には、遊びだけでなく惰性の仕事も入る。同じ判断を、考えずに繰り返している時間。それは時計の上では働いているが、持続の上ではほとんど流れていない。

03経験の密度には、天井がある

密度を上げようとすれば、しばらくは上がる。アンダース・エリクソンが調べた熟達の研究は、漫然とやるのではなく、自分がまだできない一点に狙いを定めて練習を積むことの効果を示した。私も同じことをしてきた。分からなかった条文に当たる。外した判断を書き出す。人の指摘を写す。

ただ、どこかで伸びが鈍る。高原と呼ばれる時期だ。私の場合、それは能力が止まった感覚としてではなく、世界が既知で埋まっていく感覚として来た。新しく見えるものが減る。同じ問いが、少し形を変えて何度も来る。密度は、材料が新しいあいだしか上がらない。

ここで道が分かれる。同じ軸のまま密度を上げ続けようとすると、たいてい燃え尽きる。材料が尽きているのに、燃やす量だけ増やそうとするからだ。

同じ軸で、速くする

いちばん自然な道。しばらくは伸びる。ただ、既知が増えるほど伸び代は減り、最後は量で埋めるしかなくなる。

軸を変える

実行から設計へ、個別の判断から仕組みへ。同じ現場が、別の解像度で未知に戻る。密度の源が新しく手に入る。

軸を渡す

教える側に回る。自分の中で自明になったものを、他人に伝わる形へ翻訳し直す作業は、じつは自分にとっても未知である。

②と③は、逃げではない。密度の源を、自分の内側から外側へ移し替える動作だ。自分の伸びしろが尽きても、他人の伸びしろは尽きていない。そこに接続すれば、材料はまだある。

04進んだ先で、話が通じなくなる

ある時期から、説明が難しくなった。資材を一目見て「ここが危ない」と分かる。ところが、なぜ危ないのかを言葉にしようとすると、うまく出てこない。相手には見えていないものが、自分には見えている。その差を埋める言葉が、自分の中に用意されていない。

これは能力の差の話ではない。知識の呪いと呼ばれる現象で、いったん知ってしまうと、知らなかった状態を正確に思い出せなくなる。自分がどの順番で何につまずいたかを、忘れてしまう。だから「なぜ分からないのか」が分からなくなる。

乖離が生まれるのは、相手が劣っているからではなく、通ってきた道が違うからだ。ここを取り違えると、話は最悪の形になる。分からない相手に苛立ち、伝える努力を減らし、結果としてさらに孤立する。私はその道を少し歩いてしまったことがある。

見るところ乖離を放っておく翻訳を仕事にする
相手の見え方分からない人まだ通っていない人
自分の言葉結論だけ渡す結論に至った道筋を分解する
孤立深まる減る。分解の過程で自分の理解も直る
残るもの自分が引退したら消える他人の中に残る

登った先に見えるものがあるとして、それを持って降りてこなければ、見えたことは自分の内側にしか存在しない。翻訳できない理解は、その人と一緒に終わる。これは寂しさの話であると同時に、仕事の話でもある。

05「頭がいい」とは、どういうことか

若い頃は、頭のよさとは処理の速さだと思っていた。難しい問いに、早く正しい答えを出せること。いまはそう思っていない。

キース・スタノヴィッチは、知能検査が何を測り損ねているかを調べた。知能の高さと、合理的に判断できることは、別の次元にある。検査で高い点を取る人が、証拠に反する自分の考えを手放せないことは、ふつうに起きる。速く考える力と、自分の考えを更新する力は、別々に存在する

知能を二つに分ける古い考え方も、ここに重なる。新しい問題をその場で解く力は、若い時期に高く、年齢とともに下がっていく。一方、蓄えた知識と経験を使う力は、長く伸び続ける。速さで勝負していると、ある年齢から負け続けることになる。

更新できる

去年の自分の判断を、今年の証拠で書き換えられる。書き換えを負けだと感じない。

基準を動かせる

同じ規範でも、資材の性質と読み手が変われば線の位置が変わる。前回の答えを持ってこない。

分からなさを保持できる

結論を急がず、灰色のまま抱えて次の材料を待てる。決めないことを、無能の証拠にしない。

この三つは、いずれも速さと関係がない。むしろ速さの逆にある。頭のよさの本質は、答えを出す速度ではなく、答えを持ち替えられる柔らかさのほうにある ── これが、いまの私の答えだ。そしてこれは、年齢とともに落ちない側の力である。

06終わりが見えたとき、抗うのか

いつか、残りの時間のほうが短くなる日が来る。この仕事で言えば、あと何本の資材を見られるか、あと何人に渡せるかが、数えられる範囲に入る日だ。

そのとき抗うのか、受け入れるのか。この二択が、私にはずっと問いだった。抗うのは、まだ登れるという自己像を手放せないからだ。受け入れるのは、賢いようでいて、早すぎれば単に降りることになる。

この二択そのものが間違っている、といまは思っている。抗う・受け入れるは、終わりに対する態度の話だ。しかし実際に決めなければならないのは、態度ではなく残りをどこに使うかである。態度は決めても何も動かない。使い道を決めると、明日の予定が変わる。

内村鑑三が『後世への最大遺物』で立てた問いが、ここで効く。人が後の世に遺せるものは何か。金か、事業か、思想か。彼はそれらを挙げたうえで、金を遺せる人も、事業を起こせる人も、思想を書ける人も限られていると認める。そして誰にでも遺せる最大の遺物として、勇ましい高尚なる生涯を挙げた。何を成したかではなく、どう生きたかなら、誰でも遺せる、と。

私はこれを、道徳の話としてではなく、配分の話として読む。遺すものの種類を決めれば、残り時間の使い道が決まる。成果を遺したいのか、人を遺したいのか、判断の仕方を遺したいのか。抗うか受け入れるかではなく、何を渡して終わるかを決める。決めた瞬間から、抗う必要も、受け入れる必要も、あまりなくなる。

07燃え尽きないための、目標の置き方

完全燃焼を目指したい。けれど燃え尽きたくない。この二つは矛盾しているように見えるが、燃え尽きの研究を読むと、そうでもない。

クリスティーナ・マスラックらの調査が示したのは、意外な事実だった。燃え尽きは、働きすぎだけでは起きない。起きるのは、仕事量に加えて、裁量のなさ、報われなさ、職場との価値の食い違いが重なったときだ。逆に言えば、量が多くても、自分で決められて、届いた実感があり、大事にしたいものと仕事の向きが合っていれば、人は驚くほど燃える。

だから「頑張りすぎるな」は処方にならない。効くのは、燃料の種類を変えることだ。

見るところ燃え尽きる置き方燃え続ける置き方
目標の形到達目標。着くまで満たされない方向目標。今日どちらを向くかで決まる
判定者自分の外。評価と承認自分の内。自分が確かめた事実
燃料成果。出ないと尽きる意味。出なくても残る
単位数年。手応えが遠い今日。届いた実感が毎日ある

神谷美恵子は『生きがいについて』で、生きがいを大きな使命としてではなく、日々の中に見出されるものとして描いた。療養所で、限られた条件の中にいる人たちを長く見た人の観察である。彼女が見たのは、生きがいを感じている人が、必ずしも大きなことを成し遂げていないという事実だった。自分の存在が何かの役に立っているという手応えが、日々の中にあるかどうか。それが分かれ目だった。

私の置き方は、いまこうなっている。到達点ではなく方向を持つ。方向は手の届く単位に割る ── 今日この一枚を、昨日より正確に見る。そして渡す先を持つ。渡す先があると、自分の伸びが止まった日にも、燃料は切れない。

結語

山に頂上があるかどうかは、いまも分からない。ただ、標高は確かに上がっている。上がったから見えるようになったものがあり、見えるようになったせいで通じなくなった相手がいる。その乖離は寂しい。けれど、埋める作業そのものが、次の登り方になった。

完全燃焼というのは、たぶん、自分の燃料を使い切ることではない。火を絶やさないまま、次の誰かの薪に火を移すことだ。移した先で燃えるなら、自分の火が小さくなっていくことは、失うことにならない。シーシュポスが山を下りる時間に何を考えていたか、カミュは書いていない。私は、次に押す岩の角度のことだと思っている。それを考えている限り、罰は仕事に変わる。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 意味は頂上に置かれているのではなく、登っている側に発生している。頂上に意味を置くと、着くまでの全期間が手段になり、着かなければ全部が無駄になる。
  2. 経験の密度には天井がある。同じ軸で燃やす量だけ増やすと燃え尽きる。軸を変えるか、渡す側に回れば、他人の伸びしろが新しい材料になる。
  3. 燃え尽きは働きすぎだけでは起きない。裁量のなさ・報われなさ・価値の食い違いが重なったときに起きる。到達目標を方向目標に、燃料を成果から意味に置き換える。
出典·参考文献
  1. アルベール・カミュ. シーシュポスの神話. 新潮文庫, 1969.(頂上を目指す闘いそれ自体が人間の心を満たすという転回)
  2. セネカ. 生の短さについて 他二篇. 岩波文庫, 2010.(人生は短いのではなく、私たちが短くしている)
  3. アンリ・ベルクソン. 時間と自由. 岩波文庫, 2001.(時計の時間と、伸縮する生きられた時間の区別)
  4. ミハイ・チクセントミハイ. フロー体験 喜びの現象学. 世界思想社, 1996.(没入しているときに時間感覚が変質すること)
  5. Keith E. Stanovich. What Intelligence Tests Miss. Yale University Press, 2009.(知能の高さと合理的に判断できることは別の次元にある)
  6. K. Anders Ericsson, Robert Pool. Peak: Secrets from the New Science of Expertise. Houghton Mifflin Harcourt, 2016.(狙いを定めた練習と、その先に来る高原)
  7. Christina Maslach, Michael P. Leiter. The Truth About Burnout. Jossey-Bass, 1997.(燃え尽きは仕事量だけでなく、裁量・報われ方・価値の一致の問題)
  8. 神谷美恵子. 生きがいについて. みすず書房, 1966.(生きがいは大きな使命ではなく、日々の手応えの中にある)
  9. 内村鑑三. 後世への最大遺物. 岩波文庫, 1946.(誰にでも遺せる最大の遺物としての生涯)