一日の出来に、良いも悪いもあるのだろうか。私はいま、たぶん無いと思っている。あるのは、ただの揺らぎだ。そしてその揺らぎに手を出すほど、揺らぎは大きくなる。これは気の持ちようの話ではなく、品質管理の古い教科書に書いてある、わりと身も蓋もない事実だった。

01一日に点数をつける癖

手帳の隅に、その日の指摘の件数を書きつける癖が、長いことあった。三件で終われば「軽い日」、十件を超えれば「重い日」。数字の横に、○か×のような小さな印まで付けていた。誰に見せるものでもない。ただ、一日の終わりに自分を採点しないと、その日が閉じない気がしていた。

あるとき、半年分をまとめて眺めてみた。並んだ数字には、なんの規則もなかった。三件の翌日に十二件が来て、その次の日はまた四件に戻る。私の集中力が上がっていた週も、寝不足だった週も、数字は同じように上下していた。差をつくっていたのは私ではなく、たまたまその週に回ってきた資材が新製品の発売前だったか、既存品の小さな改訂だったか、それだけだった。

採点には、もうひとつ困った副作用があった。前の日を「重い日」と判定すると、翌朝の私は身構える。目つきが変わる。すると、ふだんなら通していたはずの表現にも赤が入る。逆に「軽い日」の翌日は、どこか安心していて、手元が甘くなる。その日の出来を採点した記憶が、次の日の判断そのものを歪めていた。

点数をつけるのをやめたのは、それに気づいてからだ。やめてみると、拍子抜けするほど何も起きなかった。指摘の数は相変わらず上下したし、重い日も軽い日も同じように来た。変わったのは、夜に自分を裁く時間がなくなったことだけだった。

02「日々是好日」は、いい日をつくれとは言っていない

禅の言葉に「日々是好日」がある。中国・唐末の雲門文偃という僧が弟子たちに投げた三文字で、宋の時代に編まれた禅の問答集『碧巌録』の第六則に収められている。

私は長いあいだ、これを「毎日をいい日にしよう」という励ましだと思っていた。前向きに生きよう、という標語の類だと。ところが読み方はどうも逆らしい。雲門が言っているのは、日に良し悪しの区別など初めから無い、ということだった。晴れがいい日で、雨が悪い日なのではない。晴れは晴れとして、雨は雨として受け取れば、どの日もそのままで足りている。いい日をつくるのではなく、良し悪しを数えるのをやめる。順序が、私の理解とは反対だった。

似たことを、もっと古い時代に荘子が書いている。『荘子』の斉物論という篇で、彼は、美しい/醜い、正しい/間違っている、といった区別が、物のほうに初めから貼ってあるのではなく、見る側があとから貼るのだと説いた。区別が消えるわけではない。ただ、その札を貼っているのが自分だと知っているかどうかで、札に振り回される度合いが変わる。

日本では鴨長明が『方丈記』の冒頭に、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、と書いた。学校で暗記させられたあの一文を、私は長いこと「はかなさ」の話だと思っていた。今は少し違って読んでいる。移ろっているほうが常態で、止まっている状態はどこにも無い、という観察の話だ。揺らいでいるのが異常なのではない。揺らいでいないように見えるときのほうが、たまたまなのだ。

03揺らぎには、二つの種類がある

とはいえ、全部を「そのまま」で流していたら仕事にならない。資材の中の数字が一桁ちがっていたら、それは受け入れる対象ではなく、直す対象だ。では、そのまま受け取る揺らぎと、手を打つ揺らぎを、どこで分けるのか。ここで役に立ったのは、禅でも哲学でもなく、品質管理の古い教科書だった。

1920年代のアメリカに、ウォルター・シューハートという技術者がいた。工場の製品のばらつきを見ていた彼は、揺らぎを二つに分けた。ひとつは共通原因。その仕組みが元々持っている、いつもの幅のことだ。特定の犯人がいない。もうひとつが特殊原因で、こちらはいつもと違う何かが起きた印になる。犯人がいる。

この分け方が効くのは、それぞれで打つ手が正反対だからだ。特殊原因は、探して取り除く。共通原因は、探しても犯人が出てこない。犯人がいないのだから、当然だ。共通原因を減らしたいなら、仕組みそのものを作り直すしかない。個々の出来事を問い詰めても、何も出てこない。

見るところ共通原因(いつもの幅)特殊原因(いつもと違う)
正体仕組みが元々抱えているばらつき名指しできる、いつもと違う出来事
見え方いつもの幅の中で上下している幅を明らかに外れる/偏りが続く
やること一件ずつには手を出さない。変えるなら仕組みごと原因を突き止めて取り除く
間違えると原因探しが空回りし、現場が疲れる本当の異常を見逃す

手帳の数字に戻ると、三件と十二件の差は、ほとんどが共通原因の側だった。資材の種類、書き手の癖、その月の販促の山。どれも私の一日の頑張りとは関係のないところで動いている。私は毎晩、犯人のいない事件の捜査をしていたわけだ。

04揺れに手を出すほど、揺れは大きくなる

共通原因に手を出してはいけない理由を、デミングという統計学者が実験の形で見せている。漏斗の実験と呼ばれるものだ。

机の上に的を描き、その真上に漏斗を構えて、玉を落とす。玉は的のまわりに散らばる。ここまではいい。問題は次だ。落ちた玉が的から右に三センチずれたとする。多くの人は、漏斗を左に三センチずらしてから、次を落とす。ずれを見つけたのだから補正する。まっとうな判断に見える。

ところが結果は逆になる。そのつど補正したときのばらつきは、漏斗をまったく動かさずに落とし続けたときより、はっきり大きくなる。手を出さないほうが、玉はまとまる。

ずれを見つける

今日は指摘が多かった。的から右にずれた。ここまでは事実だ。

原因を決めて手を打つ

気を引き締めよう、確かめる箇所を一つ足そう。善意で、漏斗を左へずらす。

揺れが広がる

次はたまたま少ない。今度は右へ戻す。補正が補正を呼び、幅だけが広がっていく。

ここに、もう一段やっかいな錯覚が重なる。心理学者のダニエル・カーネマンが書いた平均への回帰だ。極端な結果が出た次は、何もしなくても平均寄りに戻りやすい。ただの統計の性質にすぎない。ひどい出来の翌日は、放っておいてもたいてい少しましになる。すばらしい出来の翌日は、放っておいてもたいてい少し落ちる。

すると何が起きるか。悪い日に叱れば、翌日は良くなる。良い日に褒めれば、翌日は落ちる。叱ることには効き目があり、褒めることは害だ、という結論に、人はいとも簡単にたどり着く。実際には、どちらも何も動かしていない。ただ揺らぎが真ん中に戻っただけだ。私たちは、自分の手出しが効いたという証拠を、揺らぎそのものから作り出してしまう。

05「いつもの幅」を、先に決めておく

共通原因と特殊原因を分けるのは大事だ、と書いた。けれど、その日の気分で分けていたら、結局は採点していたのと変わらない。多い日を見て「今日は特殊だ」と思い、少ない日を見て「いつもの幅だ」と思う。都合よく線が動く。

シューハートの答えは、拍子抜けするほど単純だった。幅を、先に決めておく。彼が考えた管理図は、要するにそれだけの道具だ。ばらつきのいつもの幅をあらかじめ線で引いておいて、そこを外れたときにだけ動く。事が起きてから線を引けば、人はいくらでも自分に都合よく引く。だから先に引く。

先に幅を決める

この種類の資材なら、指摘はこのくらいが普通、という感覚をチームで持っておく。数字でなくてもいい。

外れたときだけ動く

幅の中の上下には手を出さない。外れたとき、あるいは同じ向きに偏り続けたときだけ、原因を探しにいく。

幅ごと変えたいなら

そもそもの幅が広すぎるなら、個々の日を責めても動かない。手順や体制を作り直す話になる。

これを一人で持つと、やはり気分で揺れる。だからチームで持つほうがいい。幅の感覚が共有されていれば、上に立つ人の機嫌で線が動かなくなる。「今日は多いですね」で終わる会話と、「これは幅の中ですか、外ですか」で始まる会話とでは、次の一手がまるで違ってくる。

私の手帳の話に戻れば、あの○と×は、事が起きたあとに引いた線だった。先に幅を決めていなかったから、毎晩の私は、その日の疲れ具合で線を引き直していた。裁いていたのではなく、線を動かしていただけだった。

06受け入れることと、あきらめることは違う

「揺らぎをそのまま受け取る」と書くと、どうしても投げやりに聞こえる。頑張らない宣言のように読める。けれど、受け入れることと、あきらめることは、まるで別のものだ。

日本の精神科医に森田正馬という人がいた。不安に苦しむ人を治療するのに、彼は不安を消そうとしなかった。むしろ逆で、あるがまま——不安は不安のまま置いておいて、そのうえで、やると決めた行動はやる。消そうとして戦うから、かえって不安に一日中付き合うはめになる。放っておけば、不安は勝手に上下して、そのうち形を変える。

同じ考え方は、いまの心理療法にも受け継がれている。スティーブン・ヘイズらが組み立てたACTも、感情との綱引きをやめるところから始まる。感情はそのままにしておいて、大事にしたい方向へ行動のほうを寄せていく。ここで言う受け入れるは、我慢でも降参でもない。感情を変えることに使っていた力を、行動のほうへ回すという、力の置き場所の付け替えだ。

見るところあきらめる受け入れる
揺らぎへの態度どうせ無駄だと、見るのをやめるあるものとして、そのまま見る
行動手が止まる決めたことは続ける
力の向き先どこにも向かわない変えられる一点に向く

資材の机に置き換えると、こうなる。今日は指摘が多い。それは事実として受け取る。原因探しはしない。ただし、確かめると決めた手順は、今日も昨日と同じようにやる。気分のほうは上下したままでいい。手順のほうを上下させない。

07気楽さは、投げやりの別名ではない

ここまで書いて、自分でも一つ気になっていることがある。良し悪しを数えるのをやめる、という話は、使い方を間違えれば、何も気にしない人の言い訳になる。見落としても「揺らぎだから」と言えてしまう。それは違う。

分かれ目は、はっきりしている。いつもと違う印は、必ず拾う。いつもの幅を明らかに外れた出来事、同じ向きの偏りが続いている兆し、承認された効能や安全性の範囲をはみ出した表現。これらは受け入れる対象ではなく、止める対象だ。ここを見逃したら、気楽でもなんでもなく、ただの怠慢になる。

そのまま受け取るのは、共通原因の側だけでいい。今日の自分の調子、指摘の件数の上下、会議で相手が不機嫌だったこと。犯人のいない揺らぎに、犯人を仕立てないというだけの話だ。

そう考えると、気楽さというのは、力を抜くことではなかった。力を入れる場所を、うんと狭くすることだった。全部に等しく気を張っていた頃より、拾うべき一点にだけ張っているほうが、結果として見落としは減った。これは私には意外な発見だった。緩めたから雑になるのではなく、緩める場所を決めたから、肝心なところに力が残った。

結語

いい日をつくろうとするのを、一度やめてみるといい。今日が良い日だったか悪い日だったかは、そもそも決めなくていい問いだった。決めないでおくと、翌朝の自分が身構えずに済む。身構えないと、目の前の一枚を、昨日の点数ごしにではなく、そのまま見られる。

雲門の三文字は、たぶん励ましではない。今日を良い日にせよ、という指示でもない。良し悪しの札を貼るのをやめれば、日はもともと足りている、という報告に近い。手帳の隅の数字を消してから、私の一日は少しだけ静かになった。揺らぎは相変わらず、同じ幅で揺れている。ただ、それを見て夜中に手を出すことが、なくなっただけだ。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 一日の出来を良し悪しで採点すると、その記憶が翌日の判断そのものを歪める。数えるのをやめると、目の前のものをそのまま見られる。
  2. 揺らぎは、犯人のいない「いつもの幅」と、いつもと違う印に分かれる。前者に手を出すほど、揺らぎはかえって大きくなる。
  3. 受け入れることは、あきらめることではない。気楽さとは力を抜くことではなく、力を入れる場所を狭く決めること。いつもと違う印だけは、必ず拾う。
出典·参考文献
  1. 圜悟克勤. 碧巌録. 岩波文庫, 1992.(第六則「日々是好日」── 雲門文偃の三文字)
  2. 荘子. 荘子 内篇. 岩波文庫, 1971.(斉物論 ── 良し悪しの区別は、見る側があとから貼る札)
  3. 鴨長明. 方丈記. 岩波文庫, 1989.(ゆく河の流れ ── 移ろっているほうが常態)
  4. Walter A. Shewhart. Economic Control of Quality of Manufactured Product. Van Nostrand, 1931.(ばらつきを共通原因と特殊原因に分ける考え方の原典)
  5. W. Edwards Deming. The New Economics for Industry, Government, Education. MIT Press, 1993.(漏斗の実験 ── 揺らぎに手を出すほど、ばらつきは広がる)
  6. ダニエル・カーネマン. ファスト&スロー(下). 早川書房, 2012.(平均への回帰と、そこから生まれる因果の錯覚)
  7. 森田正馬. 神経質の本態と療法. 白揚社, 1960.(あるがまま ── 不安を消さずに、決めた行動を続ける)
  8. Steven C. Hayes ほか. Acceptance and Commitment Therapy. Guilford Press, 1999.(受け入れることと、大事な方向へ動くことを分ける)