リーダーには寛容であってほしい、と私はよく思う。ただの甘さではない。個人の気がかりと組織のリスクを見分け、雑多な不安を拾いすぎて皆を疲れさせないこと。遠くのかすかな目標へ最初に歩き出し、後ろを振り返らずに進むこと。もしそんな人に出会えなければ、自分がそうなればいい。

01「気がかり」が「リスク」に化ける瞬間

ある水曜の午後、資材審査の定例会でのことだった。責任者がある販促資材の校正刷りを手に取って、しばらく黙ってから、こう漏らした。「なんとなく、これは心配だな」。理由は言わなかった。ただ、心配だ、と。それだけだった。

私はその場でメモを取った。翌週、配られた議事録を開いて、少し驚いた。「なんとなく心配」という言葉は、どこにもなかった。かわりに『重大リスク』という項目が立ち、その下に確認事項が三つ、箇条書きで並んでいた。誰が書いたわけでもない。会議の流れが、いつの間にか、そう書き換えていた。

次の週から、担当者の残業が始まった。三つの確認事項を潰すために、社内の別部署に問い合わせ、資料を集め、根拠を揃える。悪いことではない。ただ私は、あの「なんとなく」が、いつ、どこで、輪郭のはっきりした『リスク』に化けたのかが気になって仕方がなかった。

デンマークの哲学者キェルケゴールは、二つの心の動きを分けて考えた。ひとつは恐れ(fear)。これは相手がはっきりしている。目の前の犬が牙をむいている。締め切りが明日に迫っている。対象があるから、対処もできる。もうひとつが不安(Angst=対象のない、可能性のめまい)だ。何がとは言えないのに、ざわつく。彼はこれを「可能性を前にした、めまいのようなもの」と書いた。崖のふちに立つと、落ちるかもしれないと同時に、自分から飛べてしまうかもしれない、というあの落ち着かなさ。相手がいないから、片づけようがない。

あの責任者の「なんとなく心配」は、たぶん恐れではなく、この不安の側にあった。ところが組織というものは、不安のまま置いておくことができない。何かを気にかける働きを、ハイデガーは気遣い(Sorge=人が物事を放っておけず、気にかけてしまう根っこの心の働き)と呼んだ。それは人が生きている以上いつも動いている。その気遣いが、会議室では『リスク項目』という、扱える形に翻訳されてしまう。対象のないものに、無理やり対象を与えるわけだ。

翻訳そのものが悪いのではない。ただ、翻訳された瞬間に、元が「不安」だったのか「本物の恐れ」だったのかが見えなくなる。議事録の『重大リスク』という五文字は、両方を同じ顔で並べてしまう。そして人は、書かれた言葉のほうを信じる。

02自分の力の及ぶものと、及ばぬもの

承認前の資材を前にすると、私はいつも心の中で線を一本引く。ここまでは自分の手で直せること。ここから先は、相手の判断や、市場の反応や、承認を出す役所(規制当局)の判断ひとつ。この線引きをしないと、手が止まる。全部を自分の責任として抱え込むと、一枚のチラシの前で身動きが取れなくなるからだ。

この線引きを、二千年前に一人の哲学者が教えていた。エピクテトス。奴隷の身分から解放されて、哲学を説いた人だ。主著と呼ばれる『提要』の冒頭で、彼はこう言い切る。世の中には自分の力の及ぶもの及ばぬものがある、と。この二つを見分けることを、彼は統制の二分法として弟子に叩き込んだ。

彼の分け方は、思うより厳しい。自分の力が及ぶのは、じつは自分の考え方と、選び方と、態度くらいしかない。体調も、他人の評価も、明日の天気も、みんな「及ばぬもの」の側だ。そして及ばぬものに心を奪われると、人は必ず振り回される。逆に、及ぶものだけに力を注げば、心は静かでいられる。

及ぶもの

資材の文言をどう直すか。根拠をどう確かめるか。会議で何をどう伝えるか。自分の手が届く範囲。

及ばぬもの

上に立つ人の私的な胸さわぎ。競合がどう出るか。承認が下りるかどうか。手は届かない。

取り違えの罠

②の不安を、①の「管理すべきリスク」の箱に移してしまうこと。ここで残業が生まれる。

私が現場で何度も見てきたのは、この取り違えだ。上に立つ人の私的な不安、本人にもうまく説明できない、あの「なんとなく」は、たいてい「及ばぬもの」の側にある。それ自体は自然なことだ。責任のある立場ほど、気がかりは増える。問題は、その私的な不安が、組織が管理すべき『リスク』へと横滑りしていくときに起きる。個人の胸さわぎが、いつのまにか三人分の残業に姿を変えている。

マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝でありながら『自省録』を自分に宛てて書き続けた。誰よりも大きな責任を負う立場で、彼が繰り返し自分に言い聞かせたのは、外から来るものにいちいち心を波立たせるな、ということだった。上に立つ者の自制と平静。それは冷たさではない。自分の不安を、そのまま部下の仕事量に流し込まないための、いわば堤防のようなものだ。

線を引くのは、責任を手放すためではない。むしろ逆で、自分がほんとうに手をかけるべき一点を見失わないためだ。及ばぬものへの心配を、及ぶものの棚に置き間違えない。この地味な確認が、あの水曜の午後に三つ増えた確認事項のいくつかを減らせたかもしれない。私はそう思っている。

03雑多なリスクが、静かに人を倒す

ある資材を確認していたとき、私はチェック項目をまた一つ増やした。数字の出典、注記の位置、参照した論文の年。増やす瞬間は気持ちがいい。手を抜いていない、という感触がある。正しいことをしている、と体が言う。だから止まらない。

気づけば、確認項目は二十を超えていた。そのころ、いちばん丁寧に資材を作っていた同僚が体調を崩した。いちばん力のある後輩が、理由をあまり言わずに部署を去った。二人とも、規則を破った人ではない。むしろ全部を守ろうとした人だった。私は最初、たまたまだと思った。今はそう思わない。

韓国出身の哲学者、ビョンチョル・ハンという人がいる。彼は現代を「成果社会」と呼んだ。昔の管理は、上の人が下の人に「やれ」と命じる形だった。今は違う。誰かに命じられなくても、私たちは自分で自分を追い立てる。もっと丁寧に、もっと漏れなく。ハンはこれを自己搾取と呼んだ。外から鞭を打たれるより、この方が逃げ場がない。打っているのが自分だからだ。

確認項目を一つ増やすのは、命令ではない。善意だ。見落としを減らしたいという、まっとうな気持ちだ。でも善意は積み重なる。その二十いくつもの確認が、誰の悪意でもなく、皆の良心の合計として、いちばん真面目な人の肩に、ひときわ重くのしかかる。手を抜く人は、増えた項目を初めから無視する。倒れるのは、全部を引き受けようとした人だ。

私はチェック項目を減らすのが怖かった。減らした先で事故が起きたら、と考えると手が止まる。でも、項目を増やして人が倒れるのも、立派な事故だ。片方の事故だけを数えて、もう片方を数えないなら、それは丁寧さではなく、ただ見たいものだけを見ているにすぎなかった。

04寛容は、甘さでも放任でもない

寛容なリーダー、と聞くと、何でも許してくれる人を思い浮かべる。細かいことは言わない、大目に見てくれる、そういう人だ。でも私が現場で本当に頼りにしたのは、そういう人ではなかった。数字の出典の食い違いは一発で見抜くのに、私の小さな不安を「それはリスクに数えなくていい」と切ってくれる人だった。見逃さないのに、拾いすぎない。その真ん中に立っていた。

これは臆病とは違う。臆病な人は、何も捨てられないから全部を拾う。放任とも違う。放任な人は、大事なものすら拾わない。頼りになった先輩は、どちらでもなかった。何を拾い、何を捨てるかを、その場その場で決めていた。器の大きさとは、たくさん許せることではなく、拾うものと捨てるものを決められることだと、私はそのとき学んだ。

古代ギリシャのアリストテレスという哲学者が、これをうまく言い当てている。彼は人の良さを中庸で説明した。勇気は、無謀(多すぎ)と臆病(少なすぎ)の間にある。器の大きさも同じだ。全部を背負い込む人でも、何も背負わない人でもない、その間に立つ人のことを、彼はメガロプシュキアと呼んだ。

タイプ小さな不安への態度結果
臆病(拾いすぎ)全部リスクに数える現場が確認で埋まり、皆が疲れる
放任(少なすぎ)大事なものも見ない本当の事故を止められない
度量ある人(真ん中)状況を読んで拾う・捨てるを分ける肝心な所は外さず、現場は軽くなる

真ん中の見つけ方は、教科書の規則には書けない。アリストテレスもそう考えた。だから彼は、その場をよく見て、今ここで何が適切かを判断する賢さに名前をつけた。フロネシスだ。真ん中は、あらかじめ決まった位置にない。相手の経験、資材の中身、締め切りの近さ、そういう具体を全部見てから、そのつど決まる。だから、去年うまくいった判断を、今年そのまま持ってきても外れる。

この賢さは、本を読んで身につくものではない。多くの資材を見て、拾いすぎて人を疲れさせた失敗と、捨てすぎて事故に近づいた失敗の、両方を通ってようやく手に入る。寛容とは、生まれつきの優しさではなかった。無数の判断を重ねた末に、ようやく身につく、状況を読む力のことだった。それは甘さの反対側にある、いちばん骨の折れる仕事だ。

05遠くの一点へ、最初に足を出す

資材審査の会議で、行き先がはっきり決まらない案件に当たることがある。この訴求は攻めすぎか、それとも許容の範囲か。データはある。でも読み方が割れる。全員が正解を持っていない、あの宙づりの時間。そういうとき、誰かが「私はこう読む。だからこう直す」と最初に口を開くと、部屋の空気が動く。方角がまだ霞んでいても、半歩だけ前に出た人の背中があると、後ろの不安が薄まっていく。

面白いのは、そういう人が振り返って人数を数えないことだ。「みんな、ついてきてる?」と確かめない。ついてくると信じて、先に足を出す。列の後ろがざわついても、いちいち立ち止まらない。この「先頭を歩く」姿には、大きく分けて三つの流儀がある。どれが正しいという話ではない。同じ一歩でも、踏み出す動機が違う。

まず支える人

ロバート・グリーンリーフという実務家が唱えた「サーバント・リーダーシップ」。号令をかける前に、後ろの人が何に困っているかを先に聞く。前に出るのは、道を切り開いて後ろを楽にするためだ。権威で引っぱるのではなく、下から押し上げる。

絵で引き上げる人

政治学者バーンズと、その後を継いだバスがまとめた「変革型リーダーシップ」。目的地そのものはまだ遠くても、「そこに着いたらこう変わる」という像を鮮明に描く。給料や指示ではなく、その像に人が動かされる。

静かに折れない人

ジム・コリンズが『ビジョナリー・カンパニー2』で書いた「第5水準リーダー」。自分のことは控えめに語るのに、仕事への意志だけは折れない。個人的な謙虚さと、固い職業的な決意。この二つが同じ人の中に同居している。目立たないのに、いちばん遠くまで歩く。

三つに共通するのは、先頭に立つ動機が「自分を大きく見せること」ではないという点だ。①は支えるため、②は見せるため、③は貫くために前へ出る。どれも、後ろの人を数えて安心を得るための一歩ではない。だから振り返らずに済む。仕えることが先か、絵を見せることが先か、静かに折れないことが先か。順番は人によって違う。けれど、雑多な不安を減らすのは、決まって「先に足を出した背中」だった。

審査の現場に戻ると、私はこう思う。行き先を指し示せないときこそ、リーダーの器が出る。方角を断言できないなら、せめて自分がどう読むかを先に言う。それが半歩になる。後ろの人は、正解ではなく、その半歩を見て安心する。数えるより、進む。信じて背中を見せるほうが、結局は列を前へ動かす。

06後ろを振り向かないという強さ

一度「この方針で直そう」と決めて動き出した後、上に立つ人が何度も後ろを気にすると、列全体が止まる。資材審査でも同じことが起きる。決めたはずの指摘を、責任者が「本当にこれでいいのか」と繰り返し蒸し返す。すると担当者は次の手を止めて、上の顔色をうかがい始める。前に進む力は、済んだことや小さな不安を引きずらないところから出る。決めた後に振り向く癖は、優しさに見えて、実は列を凍らせる。

綱渡りをする人は、下を見ない。足元の高さを気にした瞬間に、揺れが体に伝わって落ちる。遠くの一点だけを見ているから、今日の一歩に耐えられる。前を向く力は、どこから来るのか。これを、二人の思想家の言葉で確かめたい。難しい名前が出るけれど、中身は現場の感覚とそう遠くない。

一人はニーチェ。彼が繰り返した考えに「自己超越」がある。そしてもう一つ、amor fati(アモール・ファティ=運命愛。起きてしまったことを恨まず、引き受けて肯定する態度)。過ぎた失敗を「なかったこと」にするのではない。起きたと認めた上で、それも自分の道だと引き受ける。だから後ろを掘り返さずに済む。彼の『ツァラトゥストラ』には綱渡り師が出てくる。渡りきることより、渡り続ける途中の姿にこそ意味がある、という寓話だ。

もう一人はヴィクトール・フランクル。強制収容所を生き延びた精神科医で、人を支えるのは快楽でも権力でもなく「意味への意志」だと書いた。彼はこう見ていた。遠い目的を持つ人は、今日の疲れに耐えられる。目的を失った人から先に力尽きた。今日の一歩がつらいとき、支えるのは「今日が楽になること」ではなく「その先に着きたい場所がある」という感覚だった。

問い後ろを気にする人前を向ける人
過ぎた失敗を何度も掘り返す引き受けて、次に置く
目の前の疲れを「もう限界だ」で止まる遠い目的に照らして耐える
列への影響全体が立ち止まる歩みが続く

もちろん反省は要る。決める前は、いくら後ろを見てもいい。データも過去の逸脱事例も、しつこく確かめるべきだ。けれど決めて歩き出した後の振り返りは、質が違う。それは検証ではなく、ためらいの再生産になりやすい。綱の上ではもう下を見ない。目的が遠いほど、今日の一歩に耐えられる。決める前の慎重さと、決めた後に前を向く強さを、同じ人が使い分けられること——それを器と呼ぶのだと思う。

07出会えないなら、自分がなればいい

ある資材の審査で、判断に迷ったことがある。データは注記付きで正しい。でも、読み手が誤解しそうな見出しだった。上に相談すれば「先例に合わせろ」と言われそうで、隣に聞けば「波風を立てるな」と返ってきそうだった。私は、誰かがはっきり「こう考えればいい」と示してくれるのを待っていた。寛容で、先頭を歩いてくれる人に。

長いこと、私はそういう手本を探し続けた。あの先輩のように落ち着いて、あの上司のように筋を通して、外に理想の型を求めた。だが手本はいつもそこにいるわけではない。忙しかったり、異動したり、そもそも同じ悩みを持っていなかったりする。待っているあいだ、資材は止まる。私の判断も止まる。ある日、待つのをやめた。手本が来ないなら、私がその判断を引き受けるしかない、と。

アメリカの思想家エマソンは『自己信頼(Self-Reliance)』という短い文章で、こう書いた。人まねをやめて、自分の内から出てくる声を信じよ、と。彼が言う「自己」は、わがままのことではない。他人の顔色ではなく、自分がよく調べて確かめたことを土台にして立つ、という意味だ。私が資材で守りたかったのは、まさにそれだった。先例が正しいから守るのではない。読み手が誤解しないという一点を、自分の目で確かめて、そこに立つ。

もう一人、フランスの哲学者サルトルの言葉が効く。彼は「実存が本質に先立つ」と言った。ふつうは逆に考える。ペーパーナイフは「切る道具」という中身が先にあって作られる。でも人間はちがう。「リーダーとはこういうもの」という型が先にあって、そこに自分を流し込むのではない。誰かの範を待つのをやめ、自分で選んで責任を引き受けた。その積み重ねが、あとから「その人らしさ」になる。

待っていた頃の私待つのをやめた私
正しさの置き場所を、外の手本に預ける正しさの置き場所を、自分が調べた事実に置く
相手の不安が伝わると、判断が揺れる不安は不安として聞き、判断は事実で決める
手本が来ないと前に進めない手本が来なくても、自分の足で一歩を出す

不思議なもので、待つのをやめた瞬間から、他人の不安に振り回されなくなった。以前は、隣の人が「大丈夫かな」と漏らすたびに、私の判断まで曇った。今はちがう。不安は不安として受けとる。でも、資材を通すか止めるかは、私が確かめた事実で決める。羅針盤を外の誰かに持たせていたのを、自分の手に取り戻した、という感じに近い。

誤解してほしくないのは、これは「一人でやれ」という話ではないことだ。人に聞くのは大事だし、手本から学ぶのもいい。ただ、最後に判断を置く場所を、自分の外に丸ごと預けてはいけない。寛容で先頭を歩くリーダーにいつも出会えるとはかぎらない。なら、その一人分の役目を、まず自分が引き受ければいい。出会えないなら、自分がなればいい。そう決めた日から、審査の机で迷う時間は、少しだけ短くなった。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 個人の「なんとなく」を、組織の『リスク』にそのまま翻訳しない。自分の力の及ぶものと及ばぬものを分け、私的な不安を部下の仕事量に流し込まない。
  2. 確認項目を足すのは痛みを伴わないが、その負担はいちばん誠実な一人に偏って積もる。拾うものと捨てるものを状況を読んで決められることが、器の大きさだ。
  3. 決める前は徹底して後ろを見る。決めた後は前だけを見る。手本が来ないなら、その一人分の役目を自分が引き受ける。
出典·参考文献
  1. エピクテトス. 提要. 岩波文庫, 1935.(自分の力の及ぶもの・及ばぬものを見分ける統制の二分法)
  2. マルクス・アウレリウス. 自省録. 岩波文庫, 1956.(上に立つ者の自制と平静を説くローマ皇帝の手記)
  3. セーレン・キェルケゴール. 不安の概念. 岩波文庫, 1979.(不安は対象のない可能性のめまいで、恐れとは別物)
  4. マルティン・ハイデガー. 存在と時間. 中央公論新社, 2003.(人が物事を気にかける根っこの働き=気遣い/Sorge)
  5. アリストテレス. ニコマコス倫理学. 岩波文庫, 1971.(器の大きさ・実践知・中庸という良さの考え方)
  6. ビョンチョル・ハン. 疲労社会. 花伝社, 2021.(成果社会の過剰な自己搾取と組織の疲れ)
  7. ロバート・グリーンリーフ. サーバントリーダーシップ. 英治出版, 2008.(まず奉仕することから始めるリーダー像)
  8. ジェームズ・バーンズ. リーダーシップ論. 未來社, 私訳.(ビジョンで人を引き上げる変革型リーダーシップの原典)
  9. ジム・コリンズ. ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則. 日経BP, 2001.(謙虚さと固い意志を併せ持つ第5水準リーダー)
  10. ラルフ・ウォルドー・エマソン. 自己信頼. 海と月社, 2009.(他者に範を求めず自らに立つ)
  11. ヴィクトール・フランクル. 夜と霧. みすず書房, 2002.(遠い目的が今日の苦しみを支える意味への意志)