ある差し戻しをめぐる「言い方が受け入れられない」という一言から、私は考え込んだ。正しい指摘が、なぜ人の反発を買うのか。「文脈だから察してほしい」で押し切らずに、その指摘が原理的になぜ正しいのかを、理由の形で相手に渡すには何が要るのか。心理学と法哲学の助けを借りて、資材審査の現場から一段ずつたどってみる。

01「言い方が受け入れられない」という相談から

ある午後、事業部の担当者に廊下で呼び止められた。手には、私が差し戻した資材(=医師や患者に配る、薬の説明チラシや冊子)のプリントがある。開口一番、その人はこう言った。「審査の指摘は分かる。中身に文句はない。でも、あの人のあの言い方が、どうしても受け入れられないんです」。

持ち帰って、指摘の中身をもう一度読んだ。効能(=その薬が効くと認められた範囲)を、承認された線より一歩広く見せてしまう一文があった。その削除依頼だ。広告規制(=医薬品の広告に何を書いてよいかを定めた法律とルール)に照らせば、指摘は正しい。私が見ても、直しは要る。

正しい。なのに、相手は腹を立てている。ここで私が最初に疑ったのは、指摘した人の口調でも人柄でもなかった。正しさが足りないのではなく、正しさが、なぜ正しいのかという理由の形で相手に届いていないのではないか、ということだ。同じ「消してください」でも、規則だから消せ、と聞こえるのと、こういう理屈でこの一文は線を越える、と届くのとでは、受け取る側の顔つきがまるで変わる。

この回で私が見たいのは、伝え方の工夫でも、担当者同士の相性でもない。もっと手前にある根っこだ。その指摘は、原理的に、なぜ正しいのか。そこがはっきりしないまま「文脈だから察してほしい」で押し切ると、正しい指摘ほど、かえって人の反発を買う。

先に一つ、種を置いておきたい。人は、自分の中でつじつまが合わない状態に置かれると、居心地の悪さを感じる。これを心理学では認知的不協和(=自分の信念どうし、あるいは信念と行動が食い違うときの、あのむずむずした落ち着かなさ)と呼ぶ。廊下で私を呼び止めたあの声の固さは、この不協和と関わっている。次の節で、そこを開いてみる。

02正しい指摘ほど、なぜ拒まれるのか

差し戻しの連絡を入れた直後、電話口の声が、すっと固くなる瞬間がある。何度も経験した。「こちらは、きちんと作ったんですけど」。この一言に、拒む気持ちの正体がのぞく。

その人の頭の中では、二つのものがぶつかっている。ひとつは、自分は丁寧に、まじめに作ったという自己評価。もうひとつは、その資材には直しが要るという事実。この二つは、同時にはうまく収まらない。丁寧に作った物に直しが要るなら、丁寧さのどこかが足りなかったことになるからだ。ここで生まれる落ち着かなさが、さっき置いた認知的不協和だ。この考えは、心理学者レオン・フェスティンガー(=不協和の研究をした人)が半世紀以上前にまとめた。

問題は、この落ち着かなさをどう消すか、である。二つの道がある。事実を受け入れて「たしかに直しが要る」と自己評価のほうを下げる道。もうひとつは、事実のほうを押し返して「この指摘はおかしい」と考える道。人は、手間の少ない後者に流れやすい。自分はきちんとやったという像を守るほうが、楽なのだ。だから正しい指摘ほど、まっすぐには届かない。

もう一つ、速さの問題がある。心理学者ダニエル・カーネマン(=人の判断のクセを研究した人)は、私たちの頭には二つの働き方があると言う。ひとつは、とっさに動く速い思考。もうひとつは、腰を据えて考える遅い思考だ。

速い思考

反射に近い。差し戻しを見た瞬間の「かちん」は、考えた末の結論ではなく、ここから出る。守りの反応。

遅い思考

手間がかかる。「なぜこの一文が線を越えるのか」と根拠をたどるのは、こちら側の仕事。すぐには起動しない。

電話口で声が固くなったのは、速い思考が先に働いたからだ。まだ遅い思考が、私の指摘の根拠を追いかける前の段階。つまりあの固さは、その人の性格でも、私への敵意でもない。人の頭がそう出来ている、という仕組みの現れだ。

私はこの見方を採る。声の固さを人柄のせいにすると、こちらも身構えて、ただの言い争いになる。仕組みとして受け取り直すと、やることが変わる。相手の速い反応が過ぎるのを待ち、遅い思考が動き出せるように、指摘の根拠を、消せという命令ではなく、たどれる理屈の形で渡す。正しさを、正しさのまま突きつけない。根拠にほどいて手渡す。ここから先の各節で、その手渡し方を一つずつ見ていく。

03「文脈だから」は、根拠にならない

ある朝、若手が上げてきた審査記録に、こう書いてあった。「文脈上、不適切」。それだけだった。私はその一行の横に赤を入れた。間違ってはいない。指摘そのものは正しい。でも、これでは資材をつくった相手は動かない。

相手の身になってみる。「文脈上、不適切」と言われて、では何を直せばいいのか。どこがまずいのか。書いた本人には見えない。反論もできないし、納得もできない。ただ「審査の人がそう言うなら」と、しぶしぶ消すだけになる。それは説得ではなく、力関係で押し切っているだけだ。

私は若手に、三つを分けて書くように言う。ひとつ目は、何を主張したいのか。ここでは「この一文は削るべきだ」。ふたつ目は、その根拠は何か。「この表現は、承認された効能(=この薬が使ってよいと国に認められた範囲)の外を指し示している」。三つ目は、その根拠が、なぜ主張に結びつくのか。「効能の外を示す表現は、資材が担う『正しい情報を伝える』という役割そのものを壊すから」。この三つがそろって初めて、指摘は個人の意見ではなく、筋の通った論証(=理由で相手を納得させる話の運び)になる。

ここで私が下敷きにしているのは、トゥールミンという哲学者が示した論証の組み立て方だ。彼は、人を納得させる話の中核に三つの部品があると考えた。主張(claim=言いたい結論)があり、それを支えるデータ(=目に見える根拠)があり、そしてもう一つ、論拠(warrant=なぜその根拠が結論を支えるのかをつなぐ筋道)がある。この三つ目が、いちばん抜け落ちやすい。

部品この事例では抜けるとどうなる
主張(claim)この一文は削るべきだ何をしてほしいのか伝わらない
根拠(data)承認された効能の外を示しているただの好き嫌いに見える
論拠(warrant)効能の外を示す表現は、資材の役割を壊すから「なぜダメなのか」が宙に浮く

「文脈だから」で止めると、この論拠の部分がまるごと隠れてしまう。だから相手には、審査する人のさじ加減(=その日の気分や個人の裁量)に見える。同じ資材を別の日に別の人が見たら通るのではないか、と疑われる。根拠を言葉にして初めて、指摘は誰が見ても同じ結論にたどり着く、公のものになる。

04根拠の根っこにある「信用」

新人に、まっすぐ問われたことがある。「どこまで規則に書いてあるんですか」。規則集のどのページを開けば、この判断の答えが載っているのか、と。私は正直に答えた。書き切れてはいない、と。

規則は大事だ。でも、現場で出会う資材の一つ一つに、あらかじめ正解が用意されているわけではない。なぜ書き切れないのか。それは、医薬品というものが、そもそも変わった品物だからだ。

考えてみてほしい。医薬品は、見た目で中身の良し悪しが分からない。同じ白い錠剤でも、効くものと効かないものの区別が、手に取っただけではつかない。しかも、効き目と副作用(=望まない体への作用)を、いつも併せ持っている。おまけに、同じ薬でも人によって出方が違う。よく効く人もいれば、副作用が強く出る人もいる。こういう品物は、正しい情報を伴って初めて、薬として役目を果たす。情報が欠けたり歪んだりすれば、同じ錠剤が害にもなる。

だから規則は、上から守らされる縛りではない、と私は新人に説明する。規則は、社会が製薬企業に「こうあってほしい」と期待する姿を、文字に写したものだ。製薬企業が自分たちで定めた決まり(=業界の自主的な取り決め)も、法律も、根っこは同じところにある。医薬品という特殊な品物を扱う以上、正しい情報を添えて世に出す責任がある。何のための規則かを分かった上で、その責任を自分のものとして引き受ける。それが規則の本当の姿だと思う。

見た目で分からない

薬の良し悪しは手に取っても判断できない。だから正しい情報が中身の代わりになる。

効き目と副作用は一組

良い作用だけの薬はない。両方を正しく伝えて初めて安全に使える。

人によって出方が違う

誰にでも同じには効かない。情報が使う人の判断を支える。

そして、この責任の土台には、目に見えない信用がある。医療者も患者も、いちいち薬を疑ってはいない。良い薬が正しく使われている、という前提の上で、診察を受け、処方された薬を飲む。この前提が崩れたら、医療そのものが成り立たない。信頼のつながり(=互いに期待し、期待される、人と人との関係)と言ってもいい。私が資材に赤を入れるのは、細かい規則違反を見つけて得意になるためではない。この静かな信用を守るためだ。指摘の根拠をたどっていくと、最後はいつもここに行き着く。

05書いていない縁を、目的が埋める

ある資材の一文に、私は付箋を貼った。効果を、承認された範囲より少しだけ大きく見せる書き方だった。作った人はこう言った。「その表現は、禁止事項のリストには載っていません」。私はいったん、その言葉を受け止める。確かに、その通りだ。その言い回しそのものは、どの規則にも書かれていない。

でも私は、書かれていないことを理由に手を引かなかった。規則というものは、起こりうる全部を先回りして書き切れない。言葉には、どうしても判断が要る縁(へり)が残る。縁とは、中心から外れた、意味のあいまいな部分のことだ。中心のはっきりした場面なら、誰が読んでも同じ答えになる。けれど縁のあたりでは、言葉だけを見ていても答えは出てこない。

法哲学者のハートは、これをルールの開かれた構造(=規則の言葉には、あらかじめ意味の決まった中心と、判断に開かれた縁の両方がある、という考え方)と呼んだ。「車両は公園に入ってはいけない」という規則を想像してみる。自動車は当然だめだ。では、子どもの三輪車は。救急車は。戦争の記念に据える本物の戦車は。規則の言葉は、この縁のどれにも自動では答えてくれない。

縁を埋めるのは、その規則が何のためにあるか、という目的だ。ハートの答えもそこにある。公園の規則の目的が「静かで安全な憩いの場を守ること」なら、そこから三輪車と戦車の扱いが分かれてくる。目的が、書かれていない縁を埋める。

私が仕事で拠りどころにするのも、これと同じ形をしている。製薬協のコード(=製薬会社が自分たちで定めた行動の約束ごと)は、具体的な記載があるかどうかにかかわらず、その精神に則った行動かどうかを判断の基準に置いている。個別の禁止語を一つずつ数えるのではない。そもそも何のための規則か。患者と医療を、正しくない情報から守るためだ。そこに立ち返れ、という構えだ。縁を、良心で埋めよ、ということだと私は受け取っている。

言葉の場所何で答えが出るか資材審査での例
中心(意味がはっきりした部分)言葉そのもので決まる承認外の効能を、そのまま効くと書く
縁(判断に開かれた部分)規則の目的・精神で埋める禁止語は使わず、印象だけ大きく見せる

だから「書いてないから自由だ」という反論に、私はこう返す。書かれていないのは本当です。でも、書かれていないことは、許されていることと同じではありません。そこは、この規則が何のためにあるかで決めます、と。

06同じ理解は、一つずつ積む

一度説明して伝わらないとき、私は昔、言葉を重ねた。同じことを角度を変えて三回言い直す。声も少し大きくなる。それでうまくいった記憶が、実はほとんどない。相手の顔は、説明が増えるほど固くなっていった。

今は逆にする。言葉を足す前に、いったん止まる。そして、相手が私の話をどう受け取ったかを一つだけ確かめる。「今の点、どう伝わりましたか」。返ってきた答えが私の意図とずれていたら、そのずれた手前まで戻る。理解は、言葉の量では増えない。二人の間に、共通の前提が一段ずつ積まれて、はじめて生まれる。

心理学者のハーバート・クラークは、この積む作業をグラウンディング(=話し手と聞き手が、今のところ何を共有できたかを、その都度たしかめ合っていく営み)と呼んだ。会話は、一人が正しい情報を投げれば済むものではない。受け取った側が「ここまでは分かった」と返し、その確認の上に次を載せる。土台を共有していく作業そのものが、理解だ。

ここに、もう一つ厄介な罠がある。社会心理学者のリー・ロスは、人はしばしばナイーブ・リアリズム(=自分は物事をありのまま、色眼鏡なしに見ている、と素朴に信じてしまう思い込み)に陥ると指摘した。私は、自分の判断を客観的だと感じている。同じ資材を前にした申請者も、自分の見方を客観的だと感じている。二人とも自分を「ありのまま」だと思い、だから相手のほうが偏って見える。

まず自分の見方を机に置く

私の判断も一つの見え方だと認める。自分が正しいという構えを崩さないと、相手は身構える。

共通の土台を先に探す

守りたいものは同じだ。患者に届く情報を正しく保つこと。ここから話を始める。

ずれを一段ずつ確かめる

相手の受け取りを聞き、ずれた手前に戻る。理解は積み直せる。

この罠に気づけたとき、私は自分の正しさをいったん脇に置けるようになった。どちらが正しいかを競う前に、二人が同じものを見られる土台を探す。同じ側に並んで、同じ資材を一緒にのぞき込む。指摘が相手に届くのは、そこから先だ。

07納得は、結論より過程から

同じ差し戻しなのに、受け止め方がまるで違う。私は資材審査(=医薬品の広告や説明資料が、承認された内容から外れていないかを確かめる仕事)の現場で、その分かれ目を何度も見てきた。あるときは「わかりました、直します」と静かに戻ってくる。別のときは、同じ指摘なのに相手の態度が固くなる。指摘の重さは変わらない。変わっているのは、結論に至るまでの過程のほうだった。

心理学者のトム・タイラーは、人が判断を受け入れるかどうかは、結果の有利・不利より、その結果がどう決められたかで大きく動くと言う。これを手続き的公正(=結論そのものより、結論に至る手続きが公平だったかどうか)と呼ぶ。負けても納得する裁判があり、勝っても後味の悪い裁判がある。差の多くは過程にある、という考え方だ。

タイラーは、その過程を支える柱を、おおよそ四つに整理した。私は差し戻しの一枚一枚を、この四つで点検している。

意見を聞かれたか

言い分を先に言えたか。反論の場が最初からあったか(=発言の機会)。

敬意を払われたか

ひとりの担当者として扱われたか。頭ごなしにされなかったか。

中立だったか

相手が誰でも同じ基準か。担当ごと・気分ごとにぶれていないか。

信じられたか

裏の意図がないと思えたか。指摘が保身や体裁のためでないと伝わったか。

この四つがそろうと、不利な結論でも人は受け入れやすい。逆に、正しい指摘でも過程が雑だと、内容ではなく態度に反発が向く。私が「文脈からしておかしい」で済ませず、なぜそう読めるのかを一段ずつ置くのは、そのためだ。文脈という言い方は、相手には「あなたの感覚でしょう」と聞こえてしまう。感覚ではなく、たどれる根拠として渡したい。

ここで働いているのが、先に触れた速い思考と遅い思考だ。差し戻しを受けた瞬間、まず動くのは速いほうだ。むっとする。防ごうとする。そこへいきなり結論をぶつけても、速い反応と速い反応がぶつかるだけで終わる。

だから私は、四つの柱を、速い反応から遅い熟慮へ渡るための橋として使う。先に意見を聞き、敬意をもって、ぶれない基準で、裏のない形で置く。そうやって過程を整えると、相手の頭のなかで、怒りから「たしかに、この一文は言い過ぎか」へと、気持ちが動きやすくなる。納得は、正しい結論を強く言うことからは生まれない。正しい過程を丁寧に踏むことから生まれる。

そして忘れないようにしている。本当の相手は、机の向こうにいる担当者ではない。人を誤らせる資材が、患者や医療者の手に届いてしまうこと、そのものだ。だから私の仕事は、相手を言い負かすことではない。正しさが正しさのまま、まっすぐ届くように過程を整えることだ。それは技術というより、良心の問題だと思っている。相手を一人の人として扱いながら、届くべきところへ事実を届ける。その両方を、同時にあきらめないでいたい。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 正しい指摘が拒まれるのは、相手の性格のせいではない。自己像と事実がぶつかる不協和と、とっさに働く速い思考が、まず反発を生む。人柄のせいにせず、仕組みとして受け取り直すと、こちらの動き方が変わる。
  2. 「文脈だから」は理由にならない。主張・根拠・論拠の三つに分け、なぜ正しいのかという理由の形で渡す。規則に書かれていない縁は、その規則が何のためにあるかという目的が埋める。
  3. 納得は、強い結論からではなく、公正な過程から生まれる。意見を聞き、敬意を払い、基準をぶらさず、裏の意図なく置く。守る相手は机の向こうの担当者ではなく、患者や医療者に届く情報そのものだ。
出典·参考文献
  1. Stephen Toulmin. The Uses of Argument. Cambridge University Press, 2003(改訂版).(主張はデータと論拠に支えられて初めて通る、という論証の骨組み)
  2. Tom R. Tyler. Why People Obey the Law. Princeton University Press, 2006.(人は結論の有利不利より過程の公正さで納得する)
  3. Leon Festinger. A Theory of Cognitive Dissonance. Stanford University Press, 1957.(自己像と事実がぶつかると、人は事実の側を拒む)
  4. Lee Ross, Richard E. Nisbett. The Person and the Situation. McGraw-Hill, 1991.(自分の見方を「客観」、相手を「偏り」と感じる素朴実在論)
  5. Herbert H. Clark. Using Language. Cambridge University Press, 1996.(理解は共通の前提を一つずつ積む共有基盤づくりから生まれる)
  6. H.L.A. Hart. The Concept of Law. Oxford University Press, 1994(第2版).(規則は必ず書き切れない縁を持ち、目的がその縁を埋める)
  7. Daniel Kahneman. Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux, 2011.(速い思考の反応と、遅い思考の熟慮の二層)
  8. 日本製薬工業協会. 製薬協 コード・オブ・プラクティス. 日本製薬工業協会, 2019改定.(記載の有無にかかわらずコードの精神に則って判断する、という行動規範)
  9. 中山竜一. 法思想史. 有斐閣, 2018.(ハートら現代法理論を日本語で概観する入門)