この文章は、資材や講演会スライドを「申請する側」に向けて書いている。審査する側ではなく、される側へ。売上の数字を背負い、顧客である医師の要望を抱え、そのあいだで日々板挟みになっている人へ。批判するためではない。ただ、差し戻しに苛立つその気持ちのいちばん奥に、一度だけ光を当ててみたい。審査員は、あなたの敵なのか ── という問いに。

01売上目標と、断れない要望

はじめに、ひとつ確かめておきたい。あなたが置かれている状況は、きれいごとで割り切れるほど単純ではない。期の数字があり、達成すべき予算があり、その先には自分の評価も、チームの空気もある。そして目の前には、長く付き合ってきた医師がいる。「このデータを、こう見せてほしい」「この表現で話したい」── その要望を、簡単に断れるはずがない。関係が壊れれば、次の機会も失われるかもしれない。

この圧力は、現場を知らない人には見えない。安全な場所から「規制を守れ」と言うのはたやすい。けれど、数字と人間関係の両方を背負って毎日を回している人にとって、それは口で言うほど軽くない。まず、その重さを軽く扱わないことから始めたい。

02それでも、橋を架ける人がいる

その重さを認めたうえで、もうひとつの事実も並べておきたい。同じ圧力のなかで、社内のルールと顧客の要望のあいだに、ていねいに橋を架けている人たちがいる。彼らは、医師の要望を頭ごなしに拒まない。なぜその表現が使えないのかを、規制の条文ではなく、相手の利益の言葉で説明する。「先生のご講演が、あとで問題にされないために」と。

そういう人は、最初は煙たがられても、やがて顧客からの信頼を勝ち取る。むしろ「この人が止めるなら、何か理由がある」と思ってもらえるようになる。これは、新しい時代の製薬企業と医師の、よき関係性のひとつのモデルだと思う。規制は関係を壊すものではなく、長く続く関係の土台になりうる ── それを身をもって示している人たちが、確かにいる。

03軋轢が、敵をつくる

一方で、顧客の要望を尊重するあまり、社内の資材審査員とのあいだに軋轢を生んでしまう人も、少なからずいる。気持ちは分かる。目の前の医師を満足させたい、約束を守りたい、数字を作りたい。その一心で押し込もうとすると、止める側の審査員が、だんだん「壁」に見えてくる。

そして、いつのまにか審査員は潜在的な敵になる。「またあの人か」「どうせ通してくれない」。差し戻しの一通が、いつしか人格への評価にすり替わっていく。でも、ここで一度だけ立ち止まってほしい。本当に、その人はあなたの敵なのだろうか。

04審査員は、実は何を引き受けているのか

審査員が「止める」とき、その背後で何が起きているのかを考えてみたい。彼らは、あなたの代わりに、いくつものリスクを引き受けている。

法的リスク

誇大広告 (薬機法 66 条)、未承認広告 (68 条) ── 一線を越えた資材は、企業全体を行政処分の射程に入れる。

医師の信用リスク

不適切な資材で講演した医師は、あとでその信用を傷つけられる。守られているのは、実は顧客である医師自身でもある。

患者のリスク

誇張された情報は、巡り巡って処方の判断を歪め、最後は患者に届く。いちばん遠くにいる人を、いちばん見えにくい場所で守っている。

あなた自身のリスク

数年後に問題化したとき、矢面に立つのは申請したあなたかもしれない。審査員は、未来のあなたを庇っている。

差し戻しは、これらのリスクを「いま、この場で」引き受ける行為だ。通すほうが、その場はずっと楽だ。嫌われずに済む。それでも止めるのは、あとで誰かが払うことになる代償を、先に見ているからだ。

05「止める」ことの中にある、配慮

少し大げさに聞こえるかもしれないが、あえて書く。審査員が資材を止めるとき、そこにあるのは妨害ではなく、配慮だと思う。本当は、愛と言ってもいいのかもしれない。

不適切な資材が世に出れば、いつか必ず、誰かが憎しみの対象になる。行政から、世間から、あるいは社内の調査から。審査員は、その将来の憎しみが生まれる確率を、いま静かに下げている。嫌われ役を引き受けることで、もっと大きな憎しみが社会に生まれるのを、未然に減らしている。止める人は、目先で好かれることを手放して、遠くの憎しみを減らしている。

06敵に見えるのは、時間の軸が違うから

では、なぜ同じ人が、ある人には味方に、ある人には敵に見えるのか。多くの場合、それは見ている時間の長さが違うからだ。

敵として見る目協働者として見る目
時間軸今期の数字・来週の講演数年後の信頼・企業の存続
差し戻しの意味自分の仕事への妨害未来のリスクの前払い
審査員の動機意地悪・保身・事なかれ会社と医師と患者の保護
関係の結末対立が固定化する信頼できる相談相手になる

短い時間軸で見れば、止める人は邪魔者だ。長い時間軸で見れば、同じ人が、あなたを守る最後の防波堤になる。敵か味方かは、相手の人格ではなく、こちらがどの長さで物事を見ているかで、静かに決まっている。

07少しだけ、内省するための問い

説教をするつもりはない。ただ、もし審査員を敵だと感じる瞬間があったら、忙しさのなかで一呼吸だけ置いて、自分にこう問うてみてほしい。

  1. 私がいま通したいこの表現は、三年後の自分が見ても、胸を張れるものだろうか。
  2. 審査員が止めているのは「私」だろうか、それとも「私が出そうとしている資材」だろうか。
  3. もしこの資材で講演した医師が、あとで批判されたとき、私はその人を守れるだろうか。
  4. 私は審査員を、敵ではなく最初の読者として、味方につける努力をしただろうか。

この問いのどれかに少しでも詰まるなら、敵は審査員ではなく、急いでいる自分のほうかもしれない。

08結び ── 憎しみではなく、愛のほうへ

顧客の要望と社内のルールのあいだに橋を架けるのは、並大抵のことではない。それを毎日やっている人たちを、私は心から尊敬する。そして、いま軋轢のなかにいる人を、責める気にもなれない。みんな、必死なのだ。

ただ、もし一つだけ持ち帰ってもらえるなら、これを書きたい。資材審査員は、あなたの敵ではない。彼らは愛をもって、いつか誰かが背負うはずだった憎しみと社会的リスクを、先回りして減らしている。その人を味方につけられたとき、あなたは顧客である医師との関係も、より深く、より長いものにできる。新しい時代の、新しい製薬企業と医師の関係は、たぶん、そういう人たちの手で作られていく。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 申請する側の圧力 (売上目標・顧客である医師の要望) は本物で、軽く扱ってはいけない。そのうえで、ルールと要望のあいだに橋を架ける人が、新しい時代のよき関係性のモデルになる。
  2. 審査員が「止める」とき、彼らは法的・医師の信用・患者・そして申請者自身のリスクを、その場で代わりに引き受けている。差し戻しは妨害ではなく、未来のリスクの前払いである。
  3. 審査員が敵に見えるのは、見ている時間の軸が短いから。長い目で見れば、同じ人が、将来の憎しみと社会的リスクを減らす味方になる。憎しみではなく、配慮 (愛) として読み替える余地がある。
出典·参考文献
  1. アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳, 岩波文庫, 1971-1973. (友愛 philia ── 相手の善きことをそれ自体として願う関係の倫理)
  2. Hirschman, Albert O. Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1970. (離脱でなく発言 ── 組織にとどまり声を上げることの建設性). (邦訳: 矢野修一訳『離脱·発言·忠誠』ミネルヴァ書房, 2005)
  3. Edmondson, Amy C. The Fearless Organization: Creating Psychological Safety in the Workplace for Learning, Innovation, and Growth. Hoboken: Wiley, 2019. (心理的安全性と「健全な対立」が組織の質を上げる). (邦訳: 野津智子訳『恐れのない組織』英治出版, 2021)
  4. Grant, Adam. Give and Take: A Revolutionary Approach to Success. New York: Viking, 2013. (短期の不人気と長期の信頼 ── ギバーの逆説). (邦訳: 楠木建監訳『GIVE & TAKE』三笠書房, 2014)
  5. Schein, Edgar H. Humble Inquiry: The Gentle Art of Asking Instead of Telling. San Francisco: Berrett-Koehler, 2013. (顧客との関係を壊さず規制を伝える「問いかけ」の技術). (邦訳: 金井壽宏監訳·原賀真紀子訳『問いかける技術』英治出版, 2014)
  6. 日本製薬工業協会『製薬協 コード·オブ·プラクティス』東京: 日本製薬工業協会. (会員企業が共有する自主規範 ── 医療関係者との適正な関係の枠組み)
  7. 厚生労働省『医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン』2018 年 9 月. (審査員が拠って立つ行政指導基準 ── 情報提供活動の適切性)