01二つの場面
朝の通勤電車。前の席で高齢の女性が貧血を起こして倒れた。誰かが声をかける。誰かが駅員を呼ぶ。誰かがペットボトルの水を差し出す。私たちは知らない他人のために、躊躇なく動ける生き物だ。
同じ日の昼休み。スマートフォンを開く。SNS のタイムラインで、誰かが誰かを罵倒している。罵倒している側の顔写真には、笑顔の家族が映っている。罵倒される側もまた、家に帰れば誰かに食事を作る人だ。両方とも、朝の電車で倒れた人を助ける同じ種類の人間である。
これは「やさしい人と冷たい人がいる」という話ではない。同じ一人の人間が、同じ一日のうちに、両方を生きているという話だ。
02進化が残した二つの回路
人類学者のロビン・ダンバーは、ヒトが安定して関係を保てる人数を 150 人前後と推定した。何百万年もの間、私たちはこのスケールの群れで生き延びてきた。狩りをし、食べ物を分け、子を守り、群れの中で起きる些細な争いを修復しながら。
この長い時間のなかで、私たちの脳には二つの回路が同時に組み込まれた。仲間 ── 顔と名前が一致する 150 人 ── に対する深い共感と協力の回路。そして、外側の集団に対する警戒と、ときに敵意の回路。前者がなければ群れは壊れる。後者がなければ群れは襲われる。両方とも、生き残るための仕様だった。
私たちは、欠陥のある倫理的存在として生まれているのではない。むしろ、矛盾するように見える二つの能力を、両方とも生存戦略として持って生まれている ── そう理解した方が、この矛盾と付き合いやすい。
03なぜ「拡張」は難しいのか
問題は、私たちの直感が今も 150 人スケールで動いているのに、私たちが暮らす世界が地球規模になったことだ。テレビが遠い国の戦争を映し、SNS が見知らぬ大陸の他人を表示する。150 人のために設計された情動の回路で、80 億人の世界を処理しなければいけなくなった。
スターリンが残したとされる言葉がある ──「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」。これは冷酷さの表明ではなく、私たちの脳の構造の正直な描写である。一人の名前と顔がある死は、私たちを揺さぶる。数字としての死は、揺さぶらない。これは意志の弱さではなく、私たちが何百万年も小集団で生きてきたことの帰結だ。
04デジタルが何を変えたか
インターネットは二つの方向に同時に作用している。一方で、地球の反対側で被災した見知らぬ人々のために、私たちは数クリックで寄付ができる。1 万キロ離れた他人への共感が、これほど簡単に行動になった時代はない。
しかし同時に、画面の向こうの相手は「顔の見えない他者」になりやすい。顔が見えない他者は、私たちの脳の「外集団」回路を起動させる。実際に会えば普通に話せる人々が、画面越しでは想像を絶する言葉を投げる。アルゴリズムは、私たちが反応する投稿を優先的に見せる。怒りと敵意は、共感よりも強くアルゴリズムに拾われる。
慈しむ能力と攻撃する能力が、同時に増幅される時代を私たちは生きている。
05それでも、輪は広がってきた
ここまで読むと、私たちの本性が変わらないなら何も希望はない、と感じるかもしれない。しかし歴史を見ると、別の事実も見えてくる。
奴隷制は、ほぼ全ての文明で当たり前だった。今は世界のほとんどの国で違法だ。女性に投票権がなかった時代があった。今は当たり前になっている。子どもに労働させることが普通だった時代があった。今は権利として守られている。
これらの変化は、人類の脳が変わったから起きたのではない。同じ脳で、同じ「150 人スケール」の直感を持ったまま、私たちは 意識的に、慈しみの輪を広げる決定を積み重ねてきた。情動の自然な延長ではなく、思考と議論と制度の上で。
06製薬の現場で考えること
この仕事をしていると、私たちは毎日、顔の見えない他者と向き合っている。臨床試験のデータの一行は、誰かの人生だ。市販後の副作用報告の一件は、誰かの家族の物語だ。私たちが扱う「数字」の向こうには、必ず一人ひとりの患者さんがいる。
製薬の現場で求められている倫理とは、結局のところ、統計を一人の人間として想像できる力のことだと思う。150 人スケールで止まっている直感の射程を、思考の力で 80 億人スケールに広げる作業である。これは自然なことではない。だから、訓練と意識が要る。
「人類はみな兄弟」という安易な答えに、私は飛びつきたくない。私たちの脳は、そういう風にはできていない。慈しみと対立、その両方を生む同じ脳を、私たちは抱えて生きていく。
だが、同じ脳で、輪を広げる決定を積み重ねることはできる。一人の患者さんを、一人の同僚を、画面の向こうの一人の他人を、150 人のうちの一人として想像する。そのささやかな決定の連続が、倫理という言葉の中身なのだと思う。