01運営者は「ばらつき」の定義を変える構想を AI に渡した
資材審査では、担当者によって指摘の出方が違う。ある人は表現の正確さに厳しく、別の人はデータの解釈に目が行く。この違いは、ふつう「ばらつき」と呼ばれ、減らすべきものとして扱われる。
2026 年 9 月、運営者は AI にひとつの構想を渡した。個人差を欠点ではなく、視点・視座・着想の多様性として定義し直す。そのうえで、一人ひとりの審査の癖を言葉にし、論理の形に整え、組織の知として束ねる。そうすれば、ばらつきは個性に変わり、個性は組織の知になる、という筋書きである。
この構想は、手順の指示ではなかった。定義の転換だった。ここで確かめたいのは、定義を変えるという着想が、AI との仕事でなぜ有効なのかである。
02定義を変えると、同じ事実から別の方向が開く
「ばらつき」と呼ぶと、問いは「どう減らすか」になる。「多様性」と呼ぶと、問いは「どう活かすか」になる。事実は同じである。担当者によって審査の結果が異なる。変わったのは定義だけだが、そこから出てくる問いの方向がまるで違う。
減らす方向では、標準化や手順書の整備が答えになる。活かす方向では、個々の視点を集めて統合する仕組みが答えになる。前者は既にどの組織でもやっている。後者は、個々の視点を言語化する手段がなければ実行できなかった。AI がその手段になりうる、というのが運営者の着想の核である。
03集合知は均質な集団からは生まれない
個人差を活かすという発想には、根拠がある。認知の多様性と集団の成果の関係は、複数の研究で確かめられている。
Alison Reynolds と David Lewis は 2017 年に Harvard Business Review で、認知の多様性が高いチームは複雑な課題をより速く解いたと報告した。ここでいう認知の多様性とは、知識の処理の仕方と、ものの見方の両方が異なることを指す。年齢や性別の多様性とは別の軸であり、外からは見えにくい。
David Rock と Heidi Grant は 2016 年の Harvard Business Review で、背景の異なるメンバーで構成されたチームは事実をより多く検討し、判断の誤りが少なかったと報告している。均質な集団は合意が早い。だが合意が早いことと、見落としが少ないことは別である。全員が同じところを見ていれば、誰も見ていない場所はそのまま残る。資材審査でも同じである。臨床データに強い人だけで審査すれば、患者向けの表現は誰も見ない。
| 見るところ | ばらつきを減らす方向 | 多様性として活かす方向 |
|---|---|---|
| 個人差の扱い | 排除すべき誤差 | 統合すべき材料 |
| 目指す状態 | 誰が審査しても同じ結果 | 複数の視点が合わさった結果 |
| 手段 | 手順書・標準化 | 言語化・比較・統合 |
| AI の役割 | 手順の遵守を確かめる | 視点を言語化し、比べられる形にする |
04言語化とは、暗黙の判断基準を文にすることである
ある担当者が「この表現は誤解を招く」と指摘し、別の担当者は同じ表現を通す。この違いの裏には、それぞれが持つ判断基準がある。だが多くの場合、その基準は本人の頭の中にあり、言葉になっていない。
言語化とは、この暗黙の基準を文にすることである。「なぜこの表現を問題だと思ったか」を書き出し、「どの規則・どの前例・どの経験に照らしてそう判断したか」を明示する。
AI はこの作業を手伝える。審査の記録を渡して「この指摘の根拠になっている判断基準を抽出してほしい」と頼めば、繰り返し現れる基準と、その担当者に固有の基準を分けて返すことができる。たとえば、ある担当者の指摘 50 件を渡すと、「有効性データの引用範囲が承認事項を超えているか」「副作用の記載順が添付文書と一致しているか」といった基準が文として出てくる。言語化は集合知の前提条件である。文になっていないものは、比べることも統合することもできない。
05資材審査では、指摘の違いが品質情報の源泉になる
製薬企業の資材審査で、担当者 A は臨床データの引用範囲に目が行き、担当者 B は患者向けの表現のわかりやすさを重視するとする。従来は、どちらかに寄せるか、両方を手順書に書くかだった。
多様性として扱う場合は別の進め方になる。まず A と B の審査記録から、それぞれが繰り返し注目する観点を AI に抽出させる。次に、二人の観点を並べて比較する。A が見ていて B が見ていない領域、B が見ていて A が見ていない領域が可視化される。
抽出する
AI に過去の指摘を渡し、繰り返し現れる判断基準を文にさせる。
並べる
誰が何を見ているか、誰が見ていないかを一覧にする。
補う
誰も見ていない観点を特定し、組織の審査項目に加える。
統合する
個人の視点を組み合わせた確認の枠組みを作り、全体で共有する。
この進め方なら、一人の審査結果がほかの全員の審査の質を上げる材料になる。これが集合知の意味である。
06AI が多様な視点を統合できるのは、言語を比較する道具だからである
なぜ AI が集合知の道具になりうるのか。言語モデルは、文を受け取り、文を返す。審査の観点が文になっていれば、複数の観点を並べ、共通する部分と異なる部分を分類し、欠けている領域を指摘できる。これは人が手作業で行うと大量の時間がかかるが、AI は構造の比較を速くこなす。
Du らは 2023 年の研究で、複数の言語モデルにそれぞれ独立に回答させ、互いに討論させると、単体のモデルより事実の正確さと推論の質が上がることを示した。人間の審査でも同じ構造が成り立つ。一人の判断を正解にするのではなく、複数の判断を突き合わせる方が、見落としが減る。
ただし、AI に統合させるには前の段階が要る。判断基準が言語化されていなければ、AI には渡せない。だから言語化が先で、統合は後である。運営者の構想も、最初の一歩は「言語化する」だった。集合知という大きな絵を描く前に、まず一人の審査を文にすることから始まる。
07明日からは、自分の審査の「癖」を AI に言語化させる
すぐにできることは三つある。
- 自分の過去の指摘を AI に渡し、繰り返し現れる観点を抽出させる。指摘の一覧を渡して「共通する判断基準を文にしてほしい」と頼む。自分では気づいていなかった癖が見える。
- 同僚の観点と並べて、見ている領域の違いを確かめる。二人分の観点リストを AI に渡し、重なりと空白を出させる。どちらが正しいかではなく、どこが違うかを確かめる。
- 空白の領域を審査の確認項目に加える。誰も見ていなかった観点を組織の確認の枠組みに追加する。個人の視点が全体の仕組みに変わる瞬間である。
- 審査の個人差を「ばらつき」と呼ぶと減らす対象になり、「視点の多様性」と呼ぶと統合の材料になる。定義を変えること自体が、AI との仕事の着想になる。
- 集合知の前提は言語化である。暗黙の判断基準を文にしなければ、AI には渡せず、比較も統合もできない。
- 一人の審査の癖を AI に抽出させ、複数人の観点を並べて空白を見つけると、個人の知が組織の仕組みに変わる。
ばらつきを多様性と呼び直すだけでは、何も変わらない。変わるのは、その定義の転換から出てくる問いの方向である。減らすのではなく、集めて活かす。そのために AI を使って言語化し、比較し、統合する。個人差を消すのではなく、個人差を組織の力に変える。この着想は、定義を一つ変えたところから生まれた。
- Reynolds, A., Lewis, D. Teams Solve Problems Faster When They're More Cognitively Diverse. Harvard Business Review, 2017. https://hbr.org/2017/03/teams-solve-problems-faster-when-theyre-more-cognitively-diverse
- Rock, D., Grant, H. Why Diverse Teams Are Smarter. Harvard Business Review, 2016. https://hbr.org/2016/11/why-diverse-teams-are-smarter
- Du, Y., Li, S., Torralba, A., Tenenbaum, J. B., Mordatch, I. Improving Factuality and Reasoning in Language Models through Multiagent Debate. arXiv:2305.14325, 2023. https://arxiv.org/abs/2305.14325
- Brynjolfsson, E., Li, D., Raymond, L. R. Generative AI at Work. NBER Working Paper 31161, 2023(The Quarterly Journal of Economics, 2025). https://www.nber.org/papers/w31161