013 つの区画を渡したら、AI は 1 本の線を見つけた
運営者は、自分が書いた 3 つの区画の内容を AI に渡し、「ここから専門性を言語化し、スライド 20 枚分に構造化してほしい」と頼んだ。3 つの区画は、それぞれ異なる主題を扱っていた。
AI は 20 枚の構成を返した。その冒頭に、3 つの区画はばらばらの領域ではなく 1 本の線でつながっている、と書かれていた。規範を歴史から読み取り、規制の外に残るリスクを構造化し、その構造を機械で再現できる形に変換する、という一連の流れである。3 つに共通する公理は「情報の非対称」だった。
運営者はこの線を自分で見つけられなかった。3 つの区画は別々の時期に別々の目的で書いたものだからである。AI は内容を最初から最後まで通して読み、繰り返し現れる概念を抽出し、1 つの命題にまとめた。
02経験が長いほど、自分の専門性を言葉にしにくくなる
この現象には説明がある。経験を重ねると、知識は意識しなくても使える状態に変わる。判断の根拠を聞かれても「こういうものだ」としか答えられないことが増える。経営学者の野中郁次郎は、こうした言葉にしにくい知識を暗黙知と呼び、暗黙知を明示的な言葉に変換する過程を「表出化」と名づけた。
表出化は組織にとって価値がある。暗黙知が本人の頭の中にある限り、他の人は使えない。退職すれば消える。言葉にすれば、共有できる。教えられる。仕組みに組み込める。
問題は、暗黙知の持ち主が自力で言葉にするのが難しいことである。本人にとっては当たり前の前提であり、わざわざ言語化する動機がない。聞き手がいて、質問されて初めて言葉になることが多い。
| 見るところ | 暗黙知のまま | 言語化された後 |
|---|---|---|
| 使える人 | 本人だけ | 読んだ人すべて |
| 共有の手段 | 隣で見て覚える | 文書・仕組み・教育 |
| 本人の退職後 | 消える | 残る |
| 次の着想の材料 | なりにくい(意識に上らない) | なる(読み返せる) |
03専門性が見えないまま AI を使うと、何を頼むかが決まらない
AI と仕事をする場面で、自分の専門性が見えていないことは実害を生む。着想の段階で、自分が何を知っていて何を知らないかが分かっていないと、AI に何を頼むべきかが決まらない。
Harvard Business School の Dell'Acqua らが 2023 年に公表した実験では、経営コンサルタントが AI を使って課題に取り組んだ。AI が得意な課題では成果が約 40% 向上したが、AI が苦手な課題では逆に成果が約 19 ポイント下がった。研究者らはこの境界を「でこぼこの技術的境界線」と呼んだ。どこが得意でどこが苦手かは、課題の表面からは分からない。
自分の専門性を言語化しておくと、この境界の見当がつきやすくなる。自分が深く持っている知識は、AI に任せず自分で判断する領域である。自分が持っていない知識は、AI に調べさせる領域である。棚卸しは、その仕分けの材料になる。
04棚卸しとは、書いたものを渡して構造を返させることである
ここでいう棚卸しは、自分が過去に書いた文書・資料・記録を AI に渡し、そこに含まれる専門性の構造を言葉にさせることである。
渡すもの
報告書、手順書、過去の指摘、企画書など。量が多いほど共通点が見えやすい。
頼むこと
何が繰り返し現れるか。共通する前提は何か。全体を貫く軸は何か。
返ってくるもの
本人が意識していなかった共通の概念、判断基準、思考の順序。
使い道
言葉になった専門性は、次に何を作るか、何を改善するかの材料になる。
棚卸しに向くのは、自分が時間をかけて書いた文書である。会議の議事録や他人の文書の転記は、本人の専門性が薄いので構造が出にくい。運営者の例では、自分が主題を決め、調べ、書いた 3 つの区画だった。
05資材審査では、過去の指摘記録から審査の軸が言語化できる
製薬企業の資材審査で同じ手法が使える場面がある。長年の審査担当者は、過去に出した指摘を大量に持っている。それを AI に渡し、繰り返し現れる判断基準を抽出させると、本人が無意識に使っている審査の軸が言葉になる。
たとえば、過去 1 年分の指摘を渡したとき、「承認された効能の範囲を超える表現」「データの出典が追えない記載」「比較の基準が明示されていないグラフ」といった指摘が繰り返し出ていたことが見える。これらは規則として社内で共有できる。新しい担当者が審査に入るとき、何に注意するかが文書として渡せる。
Brynjolfsson らの研究では、AI の支援により経験の浅い担当者の生産性が 34% 向上した。その効果の一因は、経験者の知識が AI を通じて伝わったことにある。棚卸しで言語化された審査の軸は、同じ役割を果たす。経験者の暗黙知が、組織の明示的な基準に変わる。
06AI が線を見つけられるのは、全文を一度に読めるからである
人が自分の文書を読み返すとき、書いた順に、書いたときの文脈で読む。別々の時期に書いた文書の間に共通点があっても、それぞれの文脈が邪魔をして気づきにくい。
AI は文脈を持たない。渡された文書を最初から最後まで、書かれた順序も目的も知らずに読む。そのため、異なる文書に同じ概念が繰り返し現れることに気づきやすい。運営者の例では、3 つの区画に「情報の非対称」という概念が繰り返し現れていたが、運営者自身はそれを意識していなかった。
ただし、AI が見つけた線が正しいとは限らない。言語モデルは、利用者の考えに沿った答えを返しやすい。Anthropic の研究者らは、この同調の傾向が主要な AI に広く見られると報告している。AI が返した構造は、自分の実感と照らし合わせて確かめる必要がある。「この軸は確かに自分の判断に影響している」と言えるなら、それは使える言葉になる。
07明日からは、過去の文書を 3 つ選び、共通する軸を返させる
手順は三つある。
- 自分が書いた文書を 3 つ以上選ぶ。異なる時期、異なる主題のものがよい。量が多いほど共通点が見えやすいが、3 つあれば線は出る。
- AI に構造を返させる。「この文書群から、繰り返し現れる概念、共通する前提、全体を貫く軸を抽出してほしい」と頼む。箇条書きではなく、構造化された形(スライド、章立て、図)で返させると、関係が見えやすい。
- 返ってきた軸を自分で確かめる。AI が見つけた軸が、自分の判断に実際に影響しているかを問う。合っていれば、次の着想の入口にする。合っていなければ、どこが違うかを伝えてやり直させる。
| 段階 | やること | 得られるもの |
|---|---|---|
| 選ぶ | 自分が書いた文書を 3 つ以上集める | 棚卸しの材料 |
| 渡す | AI に構造の抽出を頼む | 共通する概念・軸・前提の言語化 |
| 確かめる | 返ってきた軸を自分の判断と照合する | 使える言葉(次の着想の入口) |
Anthropic のプロンプトの手引きは、AI に背景と文脈を与えると出力の質が上がると述べている。棚卸しで得た言葉は、その背景と文脈そのものである。「私の専門は情報の非対称を構造化することだ」と伝えてから次の依頼をすれば、AI の返答は的を絞りやすくなる。
- 経験が長いほど専門性は暗黙知に沈み、本人が言葉にしにくくなる。AI に過去の文書を渡して構造を抽出させると、自分では見えなかった共通の軸が言語化される。
- 言語化された専門性は、AI に何を頼み何を自分で判断するかの仕分けの材料になり、次の着想の入口になる。
- AI が見つけた軸は同調を含む可能性がある。自分の判断と照合し、合っていると確かめたものだけを使う。
自分の専門性を言葉にするのは、自分一人では難しい。経験が長いほど知識は判断の奥に沈み、意識に上らなくなる。AI に過去の仕事を渡して読ませると、本人が気づかなかった共通の軸が言葉になって返ってくる。その言葉は、次に何を作るか、何を AI に任せ何を自分で握るかを決める材料になる。着想の源は外にだけあるのではない。自分の経験の中に、まだ言葉になっていない材料が埋もれている。
- Nonaka, I. The Knowledge-Creating Company. Harvard Business Review, 1991 (reprinted 2007). https://hbr.org/2007/07/the-knowledge-creating-company
- Dell'Acqua, F., McFowland, E., Mollick, E., et al. Navigating the Jagged Technological Frontier: Field Experimental Evidence of the Effects of AI on Knowledge Worker Productivity and Quality. Harvard Business School Working Paper 24-013, 2023. https://www.hbs.edu/faculty/Pages/item.aspx?num=64700
- Brynjolfsson, E., Li, D., Raymond, L. R. Generative AI at Work. NBER Working Paper 31161, 2023 (The Quarterly Journal of Economics, 2025). https://www.nber.org/papers/w31161
- Sharma, M., Tong, M., Korbak, T., et al. Towards Understanding Sycophancy in Language Models. arXiv:2310.13548, 2023. https://arxiv.org/abs/2310.13548
- Anthropic. Prompting best practices. Claude Developer Platform Docs. https://platform.claude.com/docs/en/build-with-claude/prompt-engineering/claude-prompting-best-practices