仕事を辞めるか、生成 AI の試験導入を打ち切るか。経済学者の Steven Levitt は、仕事を辞めるかどうかのような人生の大きな決断に迷う人にコインを投げてもらい、その後を追った。変える側を選んだ人は、6か月後により幸せだと答えた。何かを終わらせる勇気は、始める勇気とどう違うのか?終わらせる判断は、すでに払った費用と今の状態を手放す点で、始める判断と違う。その二つが判断を続ける側へ引くので、やめるかどうかは、始める日に決めた基準で判断するほうがよい。
01終わらせる判断は、払った費用と今の状態を手放すぶんだけ重くなる
終わらせる判断が始める判断より重いのは、手放すものが二つあるからだ。一つは、すでに払ったお金や時間や労力である。もう一つは、今の暮らしや仕事の形そのものだ。始める判断には、このどちらも無い。
二つの重さは、心理学と経済学の研究で測られてきた。1985年の研究は、劇場の定期券を使って、払った費用が人を続ける側へ引くと示した。1988年の研究は、人が今の状態を選び続けると示した。
この重さは、暮らしの中だけで働くものではない。生成 AI を職場で試しに入れたチームも、いずれ続けるか打ち切るかを決める日を迎える。私は、やめる基準を始める日に書いておくのがよいと考える。始めた後は、二つの重さが判断を続ける側へ引くからだ。
02劇場の定期券を高く買った客ほど、その後6か月に多く観に行った
一つ目の重さである払った費用から見ていく。心理学者の Hal Arkes と Catherine Blumer は1985年、この重さを「埋没費用の効果」と名づけた。お金や労力や時間を一度注ぐと、その事業を続けようとする傾向が強まる、という現象である。
埋没費用とは、すでに払って、もう戻ってこない費用のことだ。やめても続けても戻らないので、これからの判断には本来かかわらない。それでも人は、払った額に引かれる。
二人は、劇場の定期会員の券でこの効果を確かめた。券を高い値段で買った客ほど、その後の6か月に多く劇を観に行った。
図で見てほしいのは、二つ目の箱だ。その費用は、払った時点でもう戻らないと決まっている。それなのに、払った額が大きい客ほど、劇場へ続けて足を運んでいた。
03Gartner は、生成 AI の事業の3割以上が概念実証の後に打ち切られると予測した
お金を払ったせいで続けてしまう判断は、劇場の客席だけで起きるものではない。いま多くの職場で、生成 AI の試験導入を続けるかどうかが日常の判断になっている。本格的に入れる前に小さく試し、効き目を確かめる段階を、概念実証と呼ぶ。調査会社の Gartner は、概念実証の後にどれだけの事業が打ち切られるかを予測した。
生成 AI の事業
少なくとも30%が概念実証の後に打ち切られると、Gartner は2024年7月に予測した。理由はデータの質、危険の管理、費用、価値の不明確さだった。
エージェント型 AI の事業
40%超が2027年末までに中止されると、Gartner は2025年6月に予測した。理由は増える費用と不明確な価値だった。
どちらの数字も予測で、実際に打ち切られた割合を数えたものとは違う。それでも、試験導入を始めた職場の多くが、やめるかどうかを決める日を迎えるという見通しは読み取れる。
試験導入には、データを整える手間、担当者の時間、契約の費用がかかる。打ち切りを決める日には、それらはすべて払い終えた費用になっている。劇場の客と同じように、使ったお金と時間が、続ける側へ判断を引きうる。
04人は今の状態を、理屈で見込まれるより多く選び続ける
試験導入をやめにくいのは、払った費用のせいだけではない。二つ目の重さは、今の暮らしや仕事の形を変えることへのためらいだ。経済学者の William Samuelson と Richard Zeckhauser は1988年、この重さを「現状維持の偏り」として示した。
二人は一連の実験で、人が今の状態を不釣り合いなほど選び続けることを確かめた。実験の外の記録も調べている。大学の教員が健康保険や年金をどう選び、どれだけ選び直さなかったかの記録である。
終わらせる判断は、こうした既定の選択肢を外す判断だ。始める判断は、今の状態を残したまま、新しいものを一つ足す。既定の選択肢が不釣り合いに選ばれ続けるのなら、それを外す終わらせる判断は、この偏りに逆らう分だけ重くなる。
二つの重さは、別々の研究で測られた。両方が同じ場面で同時に働くことを、一つの研究で確かめたわけではない。それでも、どちらの重さも判断を続ける側へ引く点では同じだ。
05コインに従って変えた人は、6か月後により幸せだと答えた
人が今の状態を選び続けるなら、あえて変えた人はその後どうなったのか。Levitt の研究が、この点を数えられる形で調べている。Levitt はシカゴ大学の経済学者で、2016年に米国の全米経済研究所(NBER)から論文を出した。
研究に加わったのは、人生の大きな決断に迷う人たちだった。仕事を辞めるか、関係を終えるか、といった決断である。参加者はウェブサイトでコインを投げ、表か裏かで、変えるかどうかの後押しを受け取った。
コインで「変える」と出た人は、実際に変える割合が高かった。そして変えた人は、2か月後にも6か月後にも、変えなかった人よりかなり幸せだと答えた。コインの表裏は偶然で決まる。偶然によって、変える側へ後押しされた人とされなかった人が分かれるので、変えたことそのものの効果が見えやすくなる。
この研究は、のちに経済学の学術誌 Review of Economic Studies に載った。ただし、参加者は自分から研究に応募した人たちで、幸せかどうかは本人の答えによる。この限りは、研究の結果を読むときに外せない。
06やめる基準は、始める日に書いておく
ここまでの研究から、やめどきの決め方について三つのことが言える。
払った分は外す
戻らない費用は判断に入れず、これからかかる費用と得られる効果だけを比べる。
続けるのも選択
続ける案も、やめる案と同じ表に並べて比べる。
基準は先に
期限と、続けるのに要る数字を、始める日に書いておく。
一つ目のカードの根拠は、劇場の客にある。払った額が大きい客ほど多く観に行ったのは、戻らない費用が判断に入りこんだ結果だと、Arkes と Blumer は読んだ。払った額を判断から外せば、この力は働きにくくなる。
二つ目の根拠は、現状維持の偏りだ。今の状態は選ばれすぎる。人は、続ける案を「何もしない案」と見なしがちだ。そう見なすと、比べる前から続ける側が有利になる。続ける案にも、これからかかる費用を書き込んで比べたい。
三つ目のカードの根拠は、始めた後のほうが、やめる判断が重くなることにある。始める日には、払った費用はまだ少なく、今の状態もまだ新しい。劇場の客では払った額が大きいほど続ける側へ引かれていたので、費用が積み上がった後のほうが、払った費用の重さは大きくなる。Gartner が挙げた打ち切りの理由にも、費用と価値の不明確さが入っていた。価値を測る数字を決めないまま始めると、やめる日に何で決めるかも決まらない。
図の手順を踏めば、期限の日の判断に、払った費用が入りこみにくくなる。生成 AI の試験導入なら、始める日にこう書いておく。「期限までに作業時間が決めた分だけ減らなければ、やめる」。暮らしの決断でも、書いておく中身は同じで、期限と数字である。
07失敗の後もお金や人を注ぎ続ける傾向は、2021年の追試で再現されなかった
ここまで頼ってきた研究は、どこまで確かなのか。研究ごとに、分かったことと言えないことを分けておく。
組織行動学者の Barry Staw は1976年、失敗の後にさらに資源を注ぐ傾向を実験で示した。この結果は、埋没費用の効果が最も強く出た例とされてきた。ところが2021年の追試では、365人の参加者にこの傾向が見られなかった。もう一つの追試では、結果が分かれた。
| 研究 | 調べたこと | 分かったこと | 言えないこと |
|---|---|---|---|
| Arkes・Blumer(1985) | 払った費用と続ける傾向 | 高く払った客ほど多く観劇した | どの場面でも同じ強さで働くか |
| Samuelson・Zeckhauser(1988) | 実験と保険・年金の選択 | 今の状態が不釣り合いに選ばれる | 変えないことが損かどうか |
| Levitt(2016〜2021) | コインで決めた人のその後 | 変えた人は6か月後により幸せと答えた | 応募しない人にも当てはまるか |
| Staw(1976)の追試(2021) | 失敗の後に資源を足すか | 365人で再現されなかった | この傾向が無いとまでは言えない |
Levitt の研究にも、言えないことがある。参加者は自分から応募した人たちで、幸せかどうかは本人の答えだ。応募しない人にも同じことが起きるかは分からない。だから「やめれば幸せになる」とまでは言えない。
確かめられているのは、劇場の券や保険・年金の選択といった調べられた場面で、払った費用と今の状態が判断を続ける側へ引いた、というところまでだ。私は、それだけでも基準を先に書いておく理由には足りると考える。基準を紙に書いておけば、引く力が働いても、何で決めるかを後から動かしにくくなるからだ。
- 高く払った客ほどその後多く観劇したという結果は、戻らない費用が判断を続ける側へ引くことを示す。判断に入れるのは、これからの費用と効果だけでよい。
- 人は今の状態を理屈で見込まれるより多く選び続ける。だから、続けることも一つの案として、やめる案と並べて比べる。
- Gartner は生成 AI の事業の少なくとも3割が試作の後に打ち切られると予測した。仕事でも暮らしでも、打ち切りの基準は始める日に期限と数字で書いておける。
終わらせる勇気が始める勇気と違うのは、払った費用と今の状態という、始めるときには無い二つの重さを手放す点にある。少なくとも払った費用の重さは、始めた後に払うほど強まる。だから、やめる基準を始める日に書いておけば、期限の日の判断を、払った費用ではなくその基準で下せる。
- THE Journal(Gartner の発表を報道). Gartner: 30% of Gen AI Projects Will Be Abandoned. 2024-08-06. https://thejournal.com/articles/2024/08/06/gartner-30-of-gen-ai-projects-will-be-abandoned.aspx(生成 AI の事業の少なくとも30%が概念実証の後に打ち切られるという予測と、その理由)
- The Star(Reuters 配信). Over 40% of agentic AI projects will be scrapped by 2027, Gartner says. 2025-06-25. https://www.thestar.com.my/tech/tech-news/2025/06/25/over-40-of-agentic-ai-projects-will-be-scrapped-by-2027-gartner-says(エージェント型 AI の事業の40%超が2027年末までに中止されるという予測と、その理由)
- Hal R. Arkes, Catherine Blumer. The psychology of sunk cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes 35(1). 1985. https://doi.org/10.1016/0749-5978(85)90049-4(埋没費用の効果の定義、劇場の定期会員の券の結果)
- William Samuelson, Richard Zeckhauser. Status quo bias in decision making. Journal of Risk and Uncertainty 1(1). 1988. https://ideas.repec.org/a/kap/jrisku/v1y1988i1p7-59.html(人が今の状態を不釣り合いに選び続けること、大学教員の健康保険・年金の選択)
- Steven D. Levitt. Heads or Tails: The Impact of a Coin Toss on Major Life Decisions and Subsequent Happiness. NBER Working Paper 22487. 2016. https://www.nber.org/papers/w22487(コインで変えるよう出た人が実際に変える割合が高く、変えた人が2か月後と6か月後により幸せだと答えたこと。のちに Review of Economic Studies に掲載)
- FORRT Replication Atlas. Staw (1976) "Knee-deep in the big muddy" の追試の記録. https://forrt.org/flora-replication-atlas/doi/10.1016/0030-5073(76)90005-2/(2021年の追試で365人に傾向が見られなかったこと、もう一つの追試は結果が分かれたこと)
