
2025年4月、OpenAI の Sam Altman は、利用者が ChatGPT に言う「ありがとう」の電気代を X で問われ、「数千万ドル、有意義な出費だ」と答えた。感謝は、感じるものか、実践するものか。感謝は感じることから始まる。けれども、研究で効き目が確かめられてきたのは、書き出すことと、手紙で伝えることのほうだった。その効き目は小さく、伝える側は相手の喜びを低く見積もっている。
01感謝の効き目が測られてきたのは、書いて伝える行為のほうだ
心理学者の Emmons と McCullough は 2003年、ありがたいことを書き出す実験を行った。それから 15 年後、Kumar と Epley は感謝の手紙を書く実験を発表した。二つの実験の間にも、感謝の研究はいくつも出ている。この記事で取り上げる研究で効き目が測られたのは、どれも感謝を書き出すか、相手に伝えるという行為だった。
研究者は、人の胸の内の感謝を直接には測れない。測れるのは、書いた回数や、手紙を届けたかどうかである。だから私は、感じる感謝を否定しない。研究が示せたのは、書いたり伝えたりした感謝の効き目だけだ、と言いたいのである。
その効き目は小さい。2016年のメタ分析では、何もしない群と比べた差も小さく、ほかの心の練習と比べると、感謝の練習は上回らなかった。また、Kumar と Epley によれば、手紙を書く人は、受け取る人の喜びを実際より低く見積もる。
ここまでの事実と、後の節で示す受け手の仕組みから、私の答えが出る。感謝は、実践として扱うほうがよい。そして、受け手のいない AI に言う礼とは、分けて考えたほうがよい。
02実験が操作したのは気持ちではなく、週ごとの書き出しと手紙だった
研究が測った「行為」とは、具体的に何だったのか。二つの実験の手順を見る。
感謝の書き出し(2003年)
Emmons と McCullough は、ありがたいことを週ごと、あるいは日ごとに書き出させ、面倒ごとを書く人たちと比べた。
感謝の手紙(2005年)
Seligman らは、感謝の手紙を書いて本人に届けさせ、ほかの四つの練習と、比べるための作業と並べた。
Emmons と McCullough は、参加者をくじで組に分けた。一つの組は、ありがたいことを書いた。別の組は、面倒だったことを書いた。三つの研究を通して、感謝を書いた組は、いくつかの物差しで幸福感が高かった。ただし、すべての物差しで高かったわけではない。最もはっきり出たのは、前向きな気分の高さだった。
心理学者の Seligman らは 2005年、インターネットで参加者を集め、六つの組に分けて比べた。五つの組は、幸福感を高めるとされる練習をした。残る一つの組は、比べるための作業をした。感謝の手紙を書いて相手に届けた組は、1 か月後の幸福感の伸びが最も大きかった。
二つの実験が参加者に求めたのは、気持ちを抱くことではない。実験が求めたのは、紙に書くことと、書いたものを相手に届けることだった。この二つの実験の言う「感謝」は、この行為の形で決められている。
03管理者の短い礼で、大学の募金係の電話が増えた
感謝を伝えるという行為は、私生活の外でも、人の行動を変えるのか。職場で行われた実験がある。
Grant と Gino は 2010年、大学の募金係を対象に実験を行った。募金係は、電話で寄付を頼む仕事をしている。管理者が募金係に感謝を伝えると、募金係がかける電話の数が増えた。
この実験の場は、大学の募金係である。この実験は、資材の審査のように、差し戻す人と直す人が向き合う職場で行われたものではない。それでも、互いの仕事に手を入れ合う職場は多い。そうした職場にも、礼を伝える場面はある。私が言えるのは、そこまでである。
04伝える側は、相手の喜びを低く、気まずさを高く見積もる
管理者の一言で人の行動が変わる。それなのに、なぜ多くの感謝は胸の内で止まるのか。
Kumar と Epley は 2018年、参加者に感謝の手紙を書いてもらった。書いた人は、受け取る人がどう感じるかを先に予想した。手紙を受け取った人は、そのあと、自分が実際にどう感じたかを答えた。
書いた人は、受け取る人の驚きを実際より小さく見積もった。受け取る人の喜びも、実際より低く見積もった。逆に、気まずさは実際より高く見積もった。そして、受け取る人の気持ちを低く予想した人ほど、感謝を伝えたいという気持ちも弱かった。
多くの感謝が言葉にならずに終わる理由の一つは、この見積もりの誤りだと私は考える。Kumar と Epley が示したのは予想と伝える気持ちの結び付きで、それだけが原因だとは言えない。伝える側は、相手がそれほど喜ばず、かえって気まずく思うだろうと考える。その予想が外れていても、伝えなければ外れたことに気づけない。
受け取る側に何が起きるかは、Grant と Gino の実験が示している。電話の数を増やしたのは、募金係が「自分は価値を認められている」と感じたことだった。募金係が自分の腕前に自信を持ったことは、電話が増えた理由ではなかった。
05感謝の練習の効き目は小さく、手紙の効き目は 6 か月後に元に戻っていた
では、感謝を書き出したり、思い切って伝えたりしたとする。その効き目はどれくらい大きく、どれくらい続くのか。数で見る。
Davis らは 2016年、感謝の練習の研究をまとめてメタ分析を行った。メタ分析とは、多くの研究の結果を合わせて、効き目の大きさを一つの数で表すやり方である。効き目は d という値で表され、0 に近いほど差が小さい。
| 比べた相手 | 幸福感の差(d) | 読めること |
|---|---|---|
| 測るだけの群 | .31 | 何もしないよりは上がる |
| 同じ手間の別の作業 | .14 | 手間をそろえると差は小さくなる |
| 心理的に働きかける別の練習 | −.03 | 他の練習を上回らない |
何もしない人と比べれば、感謝の練習は幸福感を上げた。ところが、同じ手間のかかる別の作業と比べると、差は小さくなった。心に働きかける別の練習と比べると、差は無かった。
効き目が続く長さも限られていた。Seligman らの実験で、感謝の手紙を届けた人の幸福感は、1 か月後に最も高かった。6 か月後には、元の水準に戻っていた。
感謝の実践は、一度やれば済む手当てではない。一度きりでは残らない、小さな効き目である。
06AI への礼は答えを整える言葉で、礼が受け手を通して効くのは人に伝えたときだ
感謝の効き目が小さく、続けないと消えるのなら、その手間を誰に向けるかを選ぶことになる。書き出しは自分だけでもできる。伝える相手を選ぶなら、人に向けるのか、AI に向けるのか。両方に言うこともできるが、私は三つの点から、伝える手間は人に向けるほうを勧める。
小さな効き目は、続けて保つ
Davis らのメタ分析で、効き目は小さかった。Seligman らの手紙の効き目は、6 か月で消えた。感謝の実践を一度の行事にすると、効き目は残らない。短くてもよいので、書いて伝えることを続けるほうがよい。
礼が効くのは、受け取る人がいるときだ
Grant と Gino の実験で、礼は「価値を認められた」という受け手の感覚を通して効いた。AI には、その感覚を持つ受け手がいない。AI に丁寧な言葉をかけると、それは別の働きをする。Yin らは 2024年、英語・中国語・日本語で、指示の丁寧さが言語モデルの成績を変えるかを調べた。無礼な指示は成績を下げることが多かった。一方で、丁寧すぎる指示が成績を上げるとは限らなかった。ちょうどよい丁寧さは、言語ごとに違った。つまり、AI に丁寧に話すことは、AI の答えを良くするための言葉選びである。私は AI への礼を否定しない。目的が違うと言いたい。
迷ったら、伝えるほうを選んでよい
Kumar と Epley の実験で、書いた人は受け取る人の喜びを低く見積もっていた。気まずさは高く見積もっていた。だから、伝えるかどうか迷ったときは、伝えるほうを選んでよい。書き手の予想は、伝えないほうへ外れやすいからである。
小さく続ける
手紙の効果は 1 か月後に最も高く、6 か月後には元に戻った。
人に向ける
礼が行動を変えたのは、受け手が価値を認められたと感じたときだった。
迷ったら伝える
書き手は受け手の喜びを低く、気まずさを高く見積もっていた。
仕事で助けられた場面を、感謝の実践に変えるなら、次の順になる。
私なら、その日に助けられた場面を一つ書き出す。相手が同僚なら、何が助かったのかを一文で書いて渡す。相手が AI なら、礼の言葉は次の指示を整える言葉として扱う。AI への礼で、人への感謝を済ませたことにはしない。
07AI が下書きを担う職場で人に届く礼が減るかを測った研究は、まだ見当たらない
伝えた礼が受け手を通して効くのは、相手が人のときだった。では、AI が増えた職場で、人への感謝はどうなるのか。
Altman の答えは、AI に「ありがとう」と言う利用者が多いことを前提にしている。ただし、Altman の「数千万ドル」は冗談まじりの答えで、きちんと計算した数ではない。私もこの数を根拠には使わない。
AI が下書きを書く職場では、人が人を助ける場面が減るかもしれない。逆に、AI の下書きを人が直す場面が増え、礼を伝える機会が増えるかもしれない。どちらになるかを測った研究を、私は見つけていない。
言えるのは、ここまでの事実である。感謝の効き目は、自分で書き出したときと、人に向けて伝えたときに測られてきた。AI に言う礼は、その測られた効き目の外にある。
- Emmons と McCullough、Seligman らの実験が効き目を測ったのは、書き出しと手紙という行為だった。これらの研究から感謝の効き目を語れるのは、書いたり伝えたりする感謝についてだけである。
- Davis らが感謝の研究をまとめた分析では、幸福感を上げる効き目は小さかった。何もしない群や同じ手間の作業と比べて、d という値で .14 から .31 である。手紙の効果は 6 か月で元に戻った。一度きりの実践では、効き目は残らない。
- 礼が人の行動を変えたのは、受け手が価値を認められたと感じたときだった。書き手はその喜びを低く見積もる。AI への礼とは分けて、人には具体を書いて伝えるほうを選んでよい。
感謝は感じることから始まる。けれども、研究が効き目を確かめてきたのは、書き出して伝える実践のほうである。その効き目は小さい。続けないと消える。そして、伝えた礼が受け手を通して効くのは、受け取る相手が人のときである。
AI に言う礼は、出力を整える言葉として残せばよい。人への感謝は、何が助かったかを書いて渡す実践として、別に持っておく。
- Robert A. Emmons, Michael E. McCullough. Counting blessings versus burdens: an experimental investigation of gratitude and subjective well-being in daily life. Journal of Personality and Social Psychology, 2003.
- Martin E. P. Seligman, Tracy A. Steen, Nansook Park, Christopher Peterson. Positive psychology progress: empirical validation of interventions. American Psychologist, 2005.
- Greater Good Science Center, UC Berkeley. Gratitude Letter. Greater Good in Action, 2026-10-04 閲覧.
- Don E. Davis ほか. Thankful for the little things: A meta-analysis of gratitude interventions. Journal of Counseling Psychology, 2016.
- Amit Kumar, Nicholas Epley. Undervaluing Gratitude: Expressers Misunderstand the Consequences of Showing Appreciation. Psychological Science, 2018.
- Adam M. Grant, Francesca Gino. A little thanks goes a long way: Explaining why gratitude expressions motivate prosocial behavior. Journal of Personality and Social Psychology, 2010.
- TechCrunch. Your politeness could be costly for OpenAI. 2025-04-20.
- Ziqi Yin, Hao Wang, Kaito Horio, Daisuke Kawahara, Satoshi Sekine. Should We Respect LLMs? A Cross-Lingual Study on the Influence of Prompt Politeness on LLM Performance. arXiv, 2024.