
職場で AI の使い方や会社の方針がおかしいと気づいた人には、黙って去る道と、声を上げる道がある。静かに去る人と、声を上げる人の、どちらが誠実なのか。答えは、去るか残るかの形では決まらない。直せる立場の人に、何が悪いかという理由を届けたかどうかで決まり、理由を書き残して去れば、去ることも声を上げることになる。
01去るか残るかより、直せる人に理由を伝えたかで誠実さは分かれる
経済学者のアルバート・ハーシュマンは 1970 年の本『離脱・発言・忠誠』で、組織の質が落ちたときの人の応じ方を二つに分けた。黙って離れる「離脱」と、苦情や提案で直そうとする「発言」である。ハーシュマンによれば、離脱は組織に衰えの兆しを知らせるだけで、何が悪いかまでは伝えない。理由を伝えるのは発言のほうだ。
AI の開発の現場でも、同じことが問われた。2024 年 6 月、OpenAI と Google DeepMind の現旧社員が公開書簡「A Right to Warn about Advanced Artificial Intelligence」を出した。書簡は、広い守秘契約のせいで、AI の危険についての懸念を会社の外に伝えられないと訴えた。
私の答えはこうだ。誠実さを分けるのは、理由が誰に届いたかである。去るか残るかは、その次に決めればよい。読者が取れる手は、去る前に理由を書き、直せる人に渡すことだ。
02ハーシュマンの区別では、離脱は衰えを知らせ、発言は理由を知らせる
私の答えは、ハーシュマンの区別を土台にしている。ハーシュマンは、離脱も発言も、組織の衰えを測る目安になると考えた。そのうえで、発言のほうが多くを伝えると書いた。発言は、衰えの理由まで伝えるからだ。
ハーシュマンは公立学校の例を挙げている。学校の質が落ちると、質を気にかける親ほど、子どもを私立の学校へ移す。公立の学校は、生徒が減ったことには気づく。けれども、どこが悪いかを指せたはずの親は、もう学校にいない。
ハーシュマンは三つ目の言葉として「忠誠」も挙げた。組織に愛着がある人は、すぐには去らず、発言を続けやすい。愛着のある人が去るのを遅らせれば、そのぶん声を上げる時間が生まれる。この記事で忠誠に触れるのは、この点だけだ。
私はハーシュマンの原著を読んでいない。区別と学校の例は、英語版 Wikipedia の要約の範囲で書いている。
03大事な問題を上司に言えなかった人は 40 人中 34 人で、製薬の勤め人もいた
離脱だけでは、組織に理由が届かない。実際の職場では、理由が届かないまま終わることが少なくない。経営学者のミリケンらが行った聞き取りが、その数を示している。
フランシス・ミリケンらは 2003 年、コンサルティング・金融・ニューメディア・製薬・広告の会社で働く 40 人に話を聞いた。40 人のうち 34 人、つまり 85% が、大事だと思う問題を上司に言えなかった経験を持っていた。40 人の聞き取りなので、働く人全体の割合を示す数ではない。それでも、言えずにいた人が例外でないことは分かる。
AI の開発の現場でも、声を上げる手段は限られていた。2024 年の書簡は、通常の通報者保護は違法な行為を対象にしているので足りない、と書いた。書簡によれば、社員が心配する危険の多くは、まだ規制されていない。
| 見るところ | 黙って残る | 声を上げて残る | 理由を書いて去る |
|---|---|---|---|
| 組織に届くもの | 何も届かない | 理由が届く | 理由と離脱の両方 |
| 本人の負担 | 悪く見られずに済む | 悪く見られる恐れ | 職を失うが理由は残る |
| 実例 | 40 人中 34 人の経験 | 警告する権利の書簡 | Leike の 2024 年の公表 |
表の三つの道のうち、組織に理由を届けるのは、声を上げて残る人と、理由を書いて去る人だ。それでも私は、黙って残った 34 人を責める気になれない。黙った理由は、次に見るとおり、本人よりも職場の側にあったからだ。
04人が黙るのは、悪く見られる怖さと、言っても変わらないという見込みのためだ
40 人中 34 人が、大事な問題を言えずにいた。ミリケンらは、なぜ黙ったのかも聞いている。
最も多かった理由は、厄介者や不平屋と見られることへの怖さだった。三番目に多かったのは「言っても何も変わらない」という見込みで、聞き取った人の 25% がこの理由を挙げた。
こうした職場で声を上げるには、損を覚悟しなければならない。悪く見られるかもしれず、しかも効き目が見えない。そんな職場では、声を上げる道が選ばれにくくなり、黙って残るか黙って去るかに傾く。どちらを選んでも、組織は何が悪いかを知らないままになる。
ハーシュマンも、発言が抑えられた組織では離脱が増えると見ていた。この見方に立てば、黙ることと去ることは、発言のしにくさという同じ原因でつながる。声を上げるときの損を減らせば、去る人の中にも理由を残す人が増えるはずだ。これは私の推測で、確かめた資料は無い。
05カリフォルニアと日本の法律は、声を上げる人の損を減らす仕組みを用意し始めた
人を黙らせていたのは、悪く見られる怖さと、言っても変わらない見込みだった。いま、この二つを減らすための法律の仕組みが用意され始めている。
カリフォルニア州のニューサム知事は 2025 年 9 月 29 日、SB 53 という法律に署名した。SB 53 は、先端の AI モデルが持つ重大な健康・安全上の危険を明かした内部告発者を守る。2024 年の書簡が求めた保護の一部を、州の法律が用意したことになる。
日本では、公益通報者保護法が、常に 300 人を超える人を雇う事業者に、内部通報の体制を整えるよう義務づけている。300 人以下の事業者には、整えるよう努めることを求める。この法律を改めた改正法は 2025 年 6 月に成立し、2026 年 12 月 1 日に施行される。
SB 53(2025 年)
先端の AI モデルの重大な健康・安全上の危険を明かす内部告発者を守る。
内部通報の体制
日本では、常に 300 人を超える人を雇う事業者に義務、300 人以下は努力義務。
2025 年の改正
公益通報者保護法の改正法は、2026 年 12 月 1 日に施行される。
法律で守られると分かれば、悪く見られる怖さは小さくなりうる。通報の窓口があれば、言っても何も変わらないという思いも変わりうる。どちらも見込みで、効き目を確かめた資料は無い。私は、改正の中身の細部までは確かめていない。ここでは施行日と、体制の義務の線引きまでを書いておく。
06誠実さは去り方で決まらず、理由を誰に渡したかで決まる。書き残せば去っても声になる
法律が整っても、声を上げるかどうかを最後に決めるのは一人ひとりだ。一人ひとりの側から見ると、誠実さを分ける点が三つある。
去るか残るかの形だけでは、誠実さは決まらない
ミリケンらの聞き取りでは、85% が大事な問題を言えなかった。多かった理由は、悪く見られる怖さと、言っても変わらない見込みだった。聞き取りの相手は去った人ではなく黙った人だが、同じ理由は黙って去る人にも働きうる。黙って去ったという形だけで、その人を不誠実と決めつけてはいけない。
理由が直せる人に届いたかどうかで、誠実さは決まる
2024 年の書簡は、懸念を伝えられる相手が「問題に対処していないかもしれない当の会社」しかないと訴えた。そこで書簡は、取締役会や規制当局、独立した組織に、匿名で懸念を伝えられる窓口を求めた。声を上げるなら、相手が直せる立場にあるかを先に考える。直せない相手に言った声は、黙っていたのと近い結果に終わることがある。ここで問うのは、直せる人を探して理由を渡そうとしたかである。窓口が無いために届かなかった人まで、不誠実とは言えない。
理由を書き残して去れば、去ることも声を上げることになる
OpenAI で安全の研究を共同で率いていた Jan Leike は、2024 年 5 月に辞めた。辞めた二日後、Leike は理由を公に書き、OpenAI が安全を十分に重く見ていないと述べた。Leike は去ったが、理由は残った。Leike が書いたのは辞めたあとで、公の場に向けてだった。去る前に、直せる人に理由を書いて渡せば、去ることは発言を兼ねる。
07まだ規制の無い AI の危険を明かす人が守られるかは、運用を見るまで分からない
理由を書き残せば、去ることも声になる。残る疑問は、その声を法律がどこまで守るかだ。
カリフォルニアの SB 53 と日本の改正法で、声を上げる人の損を小さくする仕組みは用意されつつある。けれども、2024 年の書簡が心配した「違法ではないが危険なこと」を明かした人が、実際に守られた例はまだ見当たらない。新しい保護を何人が使ったかも、使った結果どこが直ったかも、示した資料はまだ無い。
違法でない危険
規制の無い AI の危険を明かした人が守られるかは、まだ例が無い。
使われ方
新しい保護や窓口を何人が使い、何が直ったかを示す資料は無い。
生成 AI を仕事に使う職場でも、同じことが起こりうる。たとえば、AI が書いた案内文に古い数字が残っているのに気づいた担当者がいるとする。その担当者が誰に伝えればよいかを、まだ決めていない職場もあるだろう。私はそうした職場の数を調べた資料を持っていない。ただ、伝える先が決まっていなければ、気づいた人は誰に理由を渡せばよいか分からず、黙るか去るかに傾きやすい。
私が確かめたいのは、2026 年 12 月の施行のあと、通報の窓口が実際にどれだけ使われるかである。
- ミリケンらが 40 人に聞いた調査では、85% が大事な問題を上司に言えなかった。黙って去ったという形だけで、その人を不誠実と決めつけてはいけない。
- 2024 年の「警告する権利」の書簡で、AI 企業の社員たちは、懸念を伝えられる相手が、問題に手を打っていないかもしれない自分の会社しかないと訴えた。誠実さを決めるのは、理由が直せる立場の人に届いたかどうかである。
- Jan Leike は 2024 年 5 月に辞めた二日後、理由を公に書いた。理由を書き残して去れば、去ることは声を上げることを兼ねる。
静かに去る人と声を上げる人のどちらが誠実かは、形では決まらない。決め手は、何が悪いかという理由が、直せる立場の人に届いたかどうかだ。
理由を書いて渡してから去れば、その離脱も誠実な発言になる。私は、去るかどうかを決める前に、誰に何を書いて渡すかを先に決めておきたい。
- Wikipedia. Exit, Voice, and Loyalty(Albert O. Hirschman, Harvard University Press, 1970 の項). 2026-10-05 閲覧.
- Frances J. Milliken, Elizabeth W. Morrison, Patricia F. Hewlin. An Exploratory Study of Employee Silence: Issues that Employees Don't Communicate Upward and Why. Journal of Management Studies 40(6), 2003.
- OpenAI・Google DeepMind の現旧社員. A Right to Warn about Advanced Artificial Intelligence. righttowarn.ai, 2024-06-04.
- カリフォルニア州知事室. Governor Newsom signs SB 53, advancing California's world-leading artificial intelligence industry. 2025-09-29.
- e-Gov 法令検索. 公益通報者保護法. 2026-10-05 閲覧.
- 消費者庁. 公益通報者保護法と制度の概要. 2026-10-05 閲覧.
- Business Insider. Ex-OpenAI exec calls out Sam Altman for choosing 'shiny products' over AI safety. 2024-05-17.
